第39話

文字数 4,951文字


      その三十九

 夜の九時まえに〈やきとり二郎〉から帰ってきたぼくは風呂に入ってすぐ就寝していたので、翌日は朝の七時ごろすっきり目が覚めて、五キロほど朝のジョギングをたのしむことができたのだけれど、シャワーを浴び、さわやかな気分で朝食の用意をしていると、部屋のチャイムをピンポンピンポンピンポンと必要以上に鳴らす方があって、
「はーい」
 とだからかわいくお返事して、手を拭いたりレコードを停めたりしていると、
「あっ、開いてるのね。キャハキャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
 と天地小巻ちゃんが入ってきた。
 現役当時よりだいぶぽっちゃりしていた天地小巻ちゃんは、キャハキャハわらいながら、
「あなたがクロスピンクなの?」
 ときいてきて、
「クロスピンクの変身プロテクターは、たしかにフル装備で持ってますけど、しかし、その……」
 などとパニックぎみになっていると、小巻ちゃんはその返事にはこだわらないで、
「エリマキトカゲはあなたがつくってるの?」
 とさらにたずねてきたのだけれど、話の感じだと、どうも小巻ちゃんは火野きよしさん経由で知った神秘の生物マーシシマイをいち早くおびき寄せるために、マーシシマイの好物とされているゲテモノ=エリマキトカゲを欲しがっているみたいで、
「例のあれを捕獲するためにですか?」
 とだから逆にこちらからうかがってみると、小巻ちゃんは、
「そうなの。マーシシマイはエリマキトカゲを主食にしているんですって。キャハキャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
 とやはりマーシシマイの極秘情報は、原田くん、火野きよしさんと受け継がれてのものだけに、小巻ちゃんのところまで届いたときには伝言ゲームのように若干の狂いが生じていたのであった。
 マーシシマイはゲテモノをよくおやつとして食べているが、ほんらいはご飯党なんですよ、とこの生物の成立(?)にもたしょうかかわっているぼくが説明すると、小巻ちゃんは、
「でも、わたしはエリマキトカゲって、きいたんだけど、キャハキャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
 と狂笑したのちに、
「あれ?」
 と下駄箱のうえに置いてあるクロスピンクの金髪付きヘルメットにも気づいていたのだが、クロスピンクのほうに小巻ちゃんがあまり執着してしまうと、
「じゃあ、いますぐエリマキトカゲつくって」
 とか、
「エリマキトカゲそのものに、早くなって」
 とかといきなり命令されるかもしれなかったし、白目をむいたまま、がに股でそこらへんを――もちろん半笑いで――走りまわって、身心ともに消耗しきってしまうという極限的な状況におかれたりしたら、
「これは、そもそもM・M氏が、M・M氏がぁ!」
 と三原さんに風呂敷等をおっつけてしまう可能性も大いにあったので、とにかくぼくは、
「そのヘルメットは一種の魔除けなんです」
 と小巻ちゃんにいい張ったのちに、
「ですからマーシシマイは、そば屋に行ってもご飯ものばかり注文してるんです。天ぷらそばが有名な店なのにねぇ、ぜんぜん聞く耳もたないんですよぉ。筋金入りのご飯党なんですな」
 とくり返し訴えて、すると小巻ちゃんは、
「ご飯はあるわね」
 と炊飯器を確認して、それから、
「マーシシマイはおそば屋さんでいつもなにをたのむのかしら? カツ丼? 親子丼?」
 と冷蔵庫のなかも物色しだした。
「うーん、これだと、たまご丼くらいしか、できないわね……」
 とひとり言をいっていた小巻ちゃんはそのうち食器棚のほうも勢いよくかきまわしていて、
「まあ! ホットケーキの元があるじゃないの」
 と瞳を妙にギラギラさせた小巻ちゃんは、
「バターもあるし、シロップも市販のがあるから、これでいいわね」
 と「マーシシマイはホットケーキが好物だ」などとはいっさい謳っていないのに独断でフライパン等を用意していたのだけれど、
「小巻さんは、ショートケーキづくりが趣味だったんじゃないんですか?」
 と民吾氏にいただいたファンクラブ会報に載っていた姿を思いうかべながらたずねると、
「わたし白雪姫って、いわれてたでしょ? だからそれにひっかけて、そういうことになったの。白で合わせたのね。でもね、あのころはわたし、お料理なにもできなかったのよ。会報に載ってたのも自宅じゃないの。キャハキャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
 と告白した小巻ちゃんは、ボールに移したホットケーキの元をシャカシャカやりはじめていて、ダイエット専門家女史がかつて暴露したホットケーキだかお好み焼きだかをフリスビーのように飛ばしてうんぬんという奇行を、
「やっぱり、本当だったんだろうな……」
 と警戒したぼくは、このシャカシャカ中にお玉さんお手製の防災頭巾をはじめて実用を目的に装着していたのだけれど、小巻ちゃんは焼きあがったホットケーキをこちらに逆水平式に投げつけてくるようなことはせずに、キッチンに立ったままそのホットケーキを、
「あん」
 と耳たぶで指先の応急処置をしたのちに味見していて、キルト生地のクッション性を手で確認しつつフリスビーに対応できるように腰を落としてかまえていたぼくにも、
「食べる?」
 と声をかけてくれたのだった。
 ホットケーキを食べながらさっきまで聴いていたレコードを、
「あの『若葉のささやき』が入ってるアルバムは名盤ですね」
 と話を振ると、小巻ちゃんは、
「どのLP?」
 とぼくが差し出したレコードジャケットをめずらしそうな表情でみていたが、小巻ちゃんはそのアルバムに入っている『遠い夏』も『ミモザの花の咲く頃』もイマイチおぼえていないらしくて、だから、
「シングルだったら、『水色の恋』とか『ひとりじゃないの』とか『想い出のセレナーデ』などが、とくに好きなんです」
 とぼくは当時散々うたったであろう、代表的なヒット曲をあげてみた。
「ああ『水色の恋』なら、よくおぼえてるわ」
 小巻ちゃんはぼくが淹れた紅茶をひと口飲むと、
「ここ、片づけて」
 とコタツテーブルのうえを指さしていて、といっても、どちらのホットケーキもまだ半分以上残っていたので、とりあえずぼくはお盆ごとキッチンテーブルに移して、またコタツのある部屋にすぐもどったのだが、案の定コタツテーブルのうえにもう乗っていた小巻ちゃんは、
「コンサートのオープニングは、よくこの曲をうたったのよ」
 とアカペラで『水色の恋』をうたいだしてくれて、しかし、ギターを弾くこともできた天地小巻ちゃんは当時のような裏声が出ないだけでなく、水戸光子ちゃん以上に音感もなくなってしまっているのだった。
「つぎは『ひとりじゃないの』をうたってあげるわね。このころのわたし、ホントに白雪姫みたいだったの。キャハキャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
 松坂慶子さんなどもそうだろうが、とにかく小巻ちゃんは若いときから太りやすい体質のために苦労していて、だから内府とも、
「ある程度は太っちゃってるだろ。しかし、たとえおもいっきりぽっちゃりしてても、あの歌声が聴ければ、じゅうぶんじゃないだろうか。おれは声は変わってないと思うんだ。太田裕美ちゃんだって、ぜんぜん変わってないんだからな。アグネス・チャンだって、いまでもみんなにちゃんづけで呼ばれてるわけだし」
「ぼくも、あの歌声が好きなんです。それに太っちゃったことによって、結果的に女ぶりがあがるっていうケースもありますからね。レネー・ゼルウィガーみたいに」
 と小巻ちゃん復活の夢を語り合うさいは、自分にいいきかせるように太ってしまっていることを前提に話し合っていたのだが、
「わたし、のどをわるくして、もうファルセットは永遠に出せないのよ、キャハキャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
 ということであれば、われわれがずっと夢見てきた「小巻ちゃん復活」は、ほとんど打つ手を失うわけで、
「どうして小巻ちゃんは声まで失わなければならないんだ……」
 とぼくはガックリ肩を落としてしまった。
 小巻ちゃんは、
「もう、声が出ないと知ったときはショックだったわよ」
 とさらに凄まじく狂笑していて、そのキャハキャハをきいているかぎりでは、声を失ったこともあの輝きが消えてしまったことも、まったくショックを受けているようには思えなかったが、痛々しいアカペラを休憩してもらう狙いもあって、部屋にある天地小巻ちゃんコレクションを、
「ほら」
 とつぎつぎにみせると、おなかのところに紺と黄色と赤の太い線が入っている白いワンピースを着て左手で前方を指さしているご自身のブロマイドに小巻ちゃんはしばし見入っていて、つぎつぎにみせつつそのつどそのつど腰を落として身構えていたのは、定期的に妙な光りかたをする小巻ちゃんの瞳にあらためて危険を感じていたからでもあるのだけれど、ブロマイドを凝視していた小巻ちゃんの横顔にはその狂気はなく、ブロマイドの小巻ちゃんとおなじ相がうっすらではあるが、しかし確かにあって、ぼくはそれを見出した途端、まるで小石を落とすと広がっていくあの水の輪のように、あっ、ここにいるエキセントリックな婦人はこのブロマイドを撮影したときから四十年もの年月を過ごしたあの天地小巻ちゃん本人なんだ、世間とか時代とかにではなく、じっさいは自身の才能に振りまわされつづけたあの小巻ちゃんなんだ、と気付いた。そしてゆうべ沼口隊長は輝きを失ったものは非現実的なものを求めがちになる、というようなことをこぼした汁や水滴をエルモアでマメに拭いたりしつついっていたが、あれだけの輝きを得、まだ若いある日に突然それを失う、というきっといちばんダメージを受けてしまう人生は、宇宙人だとかマーシシマイだとかに没頭したり、凡庸パンチのグラビアですごいポーズをとっちゃったり、二百人も女をだましているあの火野きよしさんに逆求愛したりしなければ乗り越えられないほどきついことだったのかもしれない、あるいはわれわれへの抗議だったのかもしれない、SOSだったのかもしれない、破滅することを才能がもとめたのかもしれない、それを受け入れたのちのキャハキャハはその印象とは逆に体よくヒストリーをまとめていないがゆえに純真さの証なのかもしれないと思った。
 奥の寝室には太い線の順番だけが若干異なる白いワンピースが一着ジュニぶらに掛けてあって、これは先日、
「むらむらするときは、この服をみながら和貴子のことを想像してくださる? 和貴子を想像することあって? やっぱりあるのね。じゃあ、あちらのお部屋でいまから想像してみてくださらない」
 と和貴子さんがこの部屋に残してくれたものなのだけれど、この服をみつけた小巻ちゃんは、
「なんだ、ちゃんと持ってるのね」
 とそのワンピースを着るために襖をピシャリと閉めていて、しかしどうかんがえてもサイズは合いそうになかったので、ビリビリにやぶかれたら今後想像しにくいと思って、ぼくは襖越しに、
「あのう、それは借り物なんで……」
 と呼びかけた。
 小巻ちゃんはそれでも強引にそのワンピースを着ようとしているらしく、
「もうちょっとだから、引っ張り上げるの手伝って」
 とやはり襖越しに声をかけてきたのだが、おそるおそる襖を開けると、小巻ちゃんは白のワンピースをすでに身につけて両腰に手の甲をあてながら、こちらをみつめていて、
「ああ、ブロマイドとまったくおなじだ……」
 とまるで天恵を受けているかのようなその輝きに腰を抜かして見惚れていると、小巻ちゃんは、
「どう?」
 と首をかわいくかしげて、それから白雪姫のようにやさしく小さくほほえんだ。


    (第三部 了)
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