第34話 落日

文字数 4,976文字

「ちょっと待って、ちょ、ほんとに。うわ、やば、逃げろ。やべえやべやべえ!」
俺も声にならない声を上げ、踵を返し来た道を走り出す。

「おい、やばいあいつ手に鎌か何かもってやがるぞ。」
猛スピードで走りながら、片桐が後方を振り向いて叫ぶ。右手に握られた鎌と思しき物体が完全に人に危害を加えるつもりだということが見て取れた。

必死に走るがこの辺りは住宅地が続くが、決して人通りは多くなく、電灯も少ない。誰かに助けを求めようにも、ここではそうはいかない。

「やばいやばいやばいやばいやばい。」
俺は冷静さを欠き、何かに取り憑かれたかのように連呼する。なんとか逃げ切る為に、身体中の血液という血液を、心臓をポンプのように駆動させ全力で走る。

「クソだめだ、走りながらじゃ通報できねえ。」
片桐は携帯電話を取り出して操作しようとするも、大女との距離が縮まりそうになってしまうため断念する。
そうしている間にもタンタンタンタンという大女の走る音が大きくなっているのがわかった。

「もう通報はいいから、追いつかれる、やばいやばいやばい。走れ走れ!」
とにかくパニックにならないように、必死に俺も走るが恐怖で訳のわからない道を走っている。
それは皮肉にも交通量の多い大通りではなく、地元の者しか通らないような裏路地を俺たちは疾走していた。

「なんか言ってんぞあの女。」

「気にせず走れ!」

後ろから大女が迫る。笑っているのか泣いているのか、何か大声で叫んでいるがその声はこの世の全てを憎んでいるような恨めしい呻き声だった。


「ああだめだ、もう走れない。」
俺は息がもたなかった。膝から崩れ落ちそうになるがここで力尽きるわけには行かず、無我夢中で走った。すぐ後ろまで大女が迫っている。

だが、いつの間にか女の足音が消えていることに気づく。緩やかにスピードを落としたというより、いきなりピタリと止まったように感じた。

「はぁ、はぁ、なんだあいつ。急に追ってこなくなったぞ。」

片桐が恐る恐る振り返り数十メートル後方にいた大女を目視する。俺たちは畑や空き地のある通りを駆け抜けており、その後ろにいた大女はちょうど電灯の下に佇んでいた。こちらを恨みのこもった表情で睨み付けている。生きた人間とは思えない、ドス黒い瞳が長い髪の間から見え隠れしている。
 しかし、大女の視線が俺たちではなく、その背後に向かっているような気がした。そしてなぜかそのまま一歩も動くことなく、まるで見えない結界が張られているかのようにこちらに襲いかかってくる様子を一切見せない。

俺は金縛りのように体が強張り、動けないがそれは大女も同じのようだった。

「なんだ?どうした、何が起きている?」
片桐がグッと拳を握り、最悪の場合の臨戦態勢を取る。確か片桐は小学校卒業まで空手を習っており、黒帯を習得していた。いざ戦うとなれば、2対1でしかも相手は女。だがそのハンデを全く感じさせない巨体と、手に握られた凶器が電灯の灯りに怪しく光る。しばらくおよそ15メートルの距離での睨み合いが続いた。

 すると大女が予想外の行動に出る。急に後ろを振り返り、また先ほどと同じスピードで何処かへ走り去っていってしまった。
それはまるで天敵に出会った野生動物のように、一瞬にして身を翻し消えていった。

「なんだあいつ、油断させる気か?何がしたいんだ?」
 俺は全身の力が抜け、尻餅をつく形でその場にへたり込んだ。視界がぼやけ、気絶しそうなほどの疲労感が全身を襲う。

「まて、まだ何か変だ。」
その場に座りこんで息を整える俺とは正反対に、片桐は立ち尽くしたまままた何かに身構える。

「今度はどうしたんだよ?」

「また見られてる気がする。夏休み最終日の帰り道に感じた感覚と同じだ。」
 そう叫んで片桐がバッと背後を振り返る。俺もつられて勢いよく後方を確認するが、人っ子一人いない寂しい田舎の路地が暗く長く続いているだけだった。

「気のせいか?何にも居ないぞ。」

「ああ、もう何も感じなくなった。でもまだ油断するな、一瞬変な気を感じたんだ。」

「それよりなんであの女急に逃げたんだ?俺はてっきり地域の見回りでも来たのかと思ったんだけど。」
 俺は片桐が感じた奇妙な視線の正体より、突然追ってこなくなり逆に一目散に退散した大女の奇行が気になった。だがとにかく頭の中は煩雑としており、深くは考えることができなかった。

「意味がわからん。さっきの謎の視線が原因か?でも他に人なんていないしな。」
ようやく少し緊張が解けたのか、片桐も両膝に手をつき中腰になる。そのまま少し息を整えながら俺に答える。

「人は本当に見当たんないな。どういうことだ。奴はこれ以上こっちに来れないのか?それともスタミナ切れか?」

「いやスタミナ切れの割には逃げてく時のスピードも速かったぞ。突然逃げて、気持ちわりいなマジ。」
大女の目的は一向にわからないままだったが、ひとまずはピンチを脱したようだった。お互い状況を整理するまで少々時間がかかった。

「おい、それより通報したほうがいいかな。大女は逃げちゃったけどさ。」
俺がそう言うと、片桐が申し訳なさそうにズボンのポケットから携帯電話を取り出してこちらに見せる。いくらボタンを押しても、電源が入らないようだった。

「見ての通り充電切れだわ。さっき走ってる時はまだギリギリあったんだけどな。くそ、肝心な時に役に立たねえもんだ。永瀬、お前の携帯から通報するか?」
 片桐が訴えかけるようにこちらに通報を頼み込むが、俺にも通報が不可能である事実を伝える。


「あー、マジですまん。今日携帯を家に忘れちゃってんだわ。」
俺が両ポケットの中身を全て取り出し、片桐に確認させる。それを見て片桐が小さなため息をついた。

「くそ、お互いついてないな。どうする?家に帰ってから通報するか?」

「悪戯だと思われないかな、それに通報ってその場で警察呼ばないと意味がないんだろ。」
今の俺たちは警察を呼んで大女を追跡してもらうより、ただ早く家という安全地帯に逃げ込むことが先決だった。

「それもそうだな、悪戯扱いもそうだけど被害届とかも出さないとだめだろうし。」
俺が辟易してそう言うと片桐が久しぶりに笑みを浮かべる。通報を固く誓っていたが、この状況で警察に頼る意味があるのか、悪戯だと思われないかという思いが強くなる。

「被害ねぇ、特に被害もクソもないけどな。これは通報は意味ないって言う天からのお達しか?」

「かも知れんな、取り敢えず早く帰ろうぜ。また奴が居るかもだからめちゃくちゃ遠回りしよう。」

 俺も腰を上げ、今逃げてきた道ではなくそのまままっすぐを指差しそう促すと片桐もああ、と答える。
 まだ心臓がバクバク言っていたが、視界も思考も先ほどよりしっかりとしていた。万事休すの死地を脱した俺達はまだ興奮気味に互いの思いをさらけ出し合う。

「どうしよう、親とかあいつらに話すか?大女に追いかけられたこと。片桐はどうするべきだと思う?」

「親は心配かけるから辞めとこう、外出禁止になるかも知れねえ。あいつらには話してもいいかも知れないけど、追いかけまわされた事は黙ってよう。」

「なんでだ?工藤がまたパニックになるからか?」

「そうだ、あくまで大女っぽいやつを目撃したって事にしよう。いや、一瞬だから勘違いかも知れないってのも言わないと。」

片桐と話しながら歩いているうちに交通量の多い道まで出てきた。ここなら襲われる危険性も低い。今思えば大女はわざと人のいない道の方へ追い込んできていたような気がする。だとすれば奴は地元の地理に明るいということになる。

 そして俺たちは確かに大女に追いかけ回されたが、それ以外に危害を加えられたわけではなく、今から通報しても後の祭りとなるため、今回も見送ることにした。
 また、炭焼き小屋メンバーにも波風を立たせないように大女らしき人物がいた気がする、ということだけを強調して説明することに話がまとまった。

「でも、話してどうするんだ?それに家の周りで遭遇したのに、本当に警察に連絡しなくていいのか?」

「うーん、警察に連絡してもな。証拠もないのに信じてもらえるかな?それとあいつらに話す理由はちゃんとある。」
かなり自信のありそうな顔で片桐がこちらを見て微笑を浮かべるが、何か算段があるのだろうか。

「理由ってなんだ?」

「さっき追いかけ回されてはっきり分かったんだよ。自分の身は自分で守るべきだとな。」
 片桐がそういうが抽象的な表現に俺はまだいまいちピンと来ない。大女との遭遇で頭の中が冷静ではないことも相まってあまり話が飲みこめなかった。

「つまりどういうことだよ。大女にやられても自己責任ってことか?」

「いや違う、大女から逃げながらの通報は現実的ではないことはさっき分かったろ?だからな、俺たち自身が武装して戦うんだ。通報はやっつけてからだ。」

「はぁ。そんなことうまくいくのか?」
少し意外なの片桐の言葉に俺は首を傾げる。

「ただ逃げ回るよりよっぽどいいぜ。」
 片桐が言うには、大女に襲われた場合はこちらも武器を持って応戦し、打ちのめした後に晴れて通報するという流れにもっていくつもりだという。
 かなりリスクの大きい作戦であり、中学生の貧相な武装で大女に競り勝つことができるのか俺は疑わしく思う。

「でも武器とかどうするよ、それに女とはいえあの現実離れしたデカさとスピードだぞ?勝算が見えねえよ。改めて見るとマジでかかったよ。」

「確かに奴は手足のリーチは長いけど、毎回持ってる武器は短い金槌だったり包丁だったり、さっきは鎌だったろ、多分。こっちの得物は長いもので対抗しよう。」
目を見張るほど冷静な片桐の物言いと分析力に俺も感心する。先程の逃走劇で何か勝機を見出しているのか、さらに片桐が続ける。

「俺らと佐野はバットがあるだろ?あと工藤も少年野球やってたからその時のバットがあるはずだ。上野もなんか適当に持たせよう。」

「バットなぁ、学校行く時にバット持って行って親や先生たちに何か言われないか?第一俺らもう部活も引退してるのに不自然すぎると思うんだけど。」
 当然ではあるが、バットを学校に持ち込むことが他の者の目にどのように映るか、俺はそこを気にかける。

「もちろんちゃんとケースに入れて持ってくるんだぞ。理由も帰りに自主練する為です、とか言っておけば絶対深く聞かれないって。」

「そんな理由で大丈夫か?一応護身用の物としては最適なんだろうけど。」
 確かに身近な武器で扱いに慣れている物といえばバットだったが、それを常に携帯することは抵抗があった。

「そんなこと言ってる場合じゃねえ。さっきは何でか向こうから逃げてくれたけど、行き止まりとかで襲われたらもう終わりだぞ。」
片桐の言葉に力が入るのが分かる、俺は頷きながらも大女に太刀打ちできるかどうかを疑っていた。ただ対抗手段として丸腰では無くこちらにもある程度の武器があれば、少しは抵抗することができるかも知れない。

「まあな。運に助けられた部分も大きかったし、そもそも大女は何で襲うの辞めたのって話になるもんな。分かった、武器を用意しよう。」

「そうだろ、じゃあ帰ったら全員で電話すんぞ。さっきも言ったけど襲われたことは話さない方向で。」

「分かってるよ。みんな乗ってくれるかは微妙だけどな。」

それから話しながら30分は遠回りをしただろうか、俺たちはそれぞれの自宅付近まで命からがらたどり着き、片桐と袂を分かつ。

「気を付けろよ、晩飯食ったらまた連絡するわ。」

「おお、片桐こそ大女がまだいないかちゃんと確認して帰れよ。」

片桐は余裕を見せようと顔は笑っていたが、声に緊張感が感じられる。
俺もここからわずかな距離だが一人で帰らなければならない。
通りなれた道が、全く知らない異国の暗い路地のように感じられる中、ただ一人家まで駆け抜けた。




 

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