第42話 死闘

文字数 3,748文字

 バットで人を殴った経験などもちろんない。これは人を殴る道具ではなく、球を弾き塁に出るための道具だ。そんなことは幼稚園児でもわかること。
 だが昨日の電話での自分の発言通り、やられる前にやる、その思いでバットを振り回す。

「来いよ!今日は逃げも隠れもしないぞクソ女!」

大女は軽々とバットを避ける、空振りするたびにブンブンと風を切る音がトンネルの中に響き渡る。

「アハ、アハ、アハハ。」

 大女は戦いを楽しむかのようにこちらの攻撃を受け流しながら不快に笑う。俺は奴をこちらに近づけない為に絶え間なくバットで間合いを取るが、全く当たらない。
 だが意外なことに、奴はなかなか攻撃をしてこない。空手に先手無しという奴なりのポリシーがあるのか、距離を詰めようとしてくる割に攻撃するそぶりは見せない。
 こいつの空手家としての性だろうか、分からないがきつい一撃をお見舞いして度肝を抜いてやる。

「お前のドタマかち割ってやるからな!」

 警察沙汰は覚悟の上で俺が叫び、奴の顔面目掛けてバットを突き出す。少々卑怯だが、前頭部への一撃と見せかけた俺なりの不意打ちだ。思い切り踏み込んで大女の顎へバットを突く。頭身が高い為、狙いやすい急所ならばここだ。

 だがこんな小手先の技は通用しなかった。大女が半身を捻り、加速させながら腕の内側を身体の正面に回してバットを弾く。完璧な空手の外受けだ。

「ヨカッタケド、ザンネン。」
 大女が一層ニヤつき顔になり、俺を小馬鹿にするかのようにそう呟く。

「くそっ、てめえ有段者だな?」
大女の受け流しによりバットの軌道が逸れ、俺は少し体勢を崩しかけるが何とか踏ん張る。
 大女が空手の手練れであるという疑惑が確信に変わった、こいつは武器無しでも俺を圧倒できる。誤算だ、最初から武装なんて意味がなかったのだ。敵の戦闘力もろくに知らず、武器を持つことの危険さを俺は噛み締める。
 

 次の瞬間大女が逆にこちらに仕掛ける。身体を外に向けぐるりと捻ったと思うと、背中をこちらに向けながら左足を思い切り突き出してきた。
 鋭い一蹴が俺を襲う。

「うおっ、あぶねぇ!」

 これも空手の技の一つ、中段蹴りだ。俺は奴の蹴りをなんとかバットでを盾にして防ぐ事が出来たが、今のがまともにヒットしてればそこからは一方的にやられてしまっていただろう。バット越しに蹴りを受けた両手がジンジンとする。

「てめえ!ぶっ殺してやる!くたばりやがれ!」
 口汚い言葉で俺は大女を罵りながら、必死に俺もバットを振りかぶる。防戦一方になる前に奴を怯ませる一撃を喰らわせなければ。
だが先ほどのように闇雲に突っ込んでも奴は相当な空手の使い手だ、防がれるだけ。工夫をして攻撃する必要がある。
 顎を狙うやり方は有効であるが、先ほど同様にいなされるとカウンターを喰らう。
 そこで次に狙うとなると身長差がある分、こちらは腹部を狙いやすい。女だとかそんなことは関係がない、凶暴な猫を噛み殺すネズミにならなくてはならない。

 大女が間合いを詰めて飛び込んでくる。予想通りの突きだ。空手には存在しないスウェーの技術だがこちらは野球で散々ボールを避けてきている。動体視力なら負ける気はしない。
 身を屈めながら渾身のフルスイングをがら空きの脇腹にぶちかます。

「グガッ。」

「やった!当たった!」

 ホームランとはいかないが、確かな手応えがあった。大女が怯む、野球部員のバットを喰らった割には決定打にはなってないようだ。
 大女はピンピンしているように見えるが、ここで一気にケリをつける為俺は間合いを詰めた。大女の口元はニヤついている、その気に入らない面をぶん殴ってやる。

 瞬時によろけた大女の懐に飛び込み、奴の胸ぐらを掴む。大女は相変わらず不気味な笑みを浮かべている。さっきの一撃が効いていないわけはないはずだが。
 こいつは化物か?多少ふらついてはいるが蹲りもせず胸ぐらを掴まれてもヘラヘラとしている。

「何だその顔はイライラするな!」

 これ以上バットで殴ると過剰防衛になると思った俺は思い切り右拳に力を込める。会心の一発を大女の左頬に叩き込もうとした瞬間。奴の口角がこれまでになく吊り上がったその刹那、大女の口の形が「ン 」の発音の時の形に変わり、ブウゥッと音がしたかと思えば何かが俺の顔面に吹き掛けられる。


「うわっ、なにしやがる!痛い痛い痛い!」

 俺は大女の胸ぐらから手を離し、すぐに後ろにのけぞる。こいつは何をした?左目が熱い、液体のようなものが目に染みる。一瞬しか見えなかったが唾か?いやちがうもっと霧状のものだった。

「アハハハハハハ。」

「うわああああ。」

 急に高笑いを始める大女と、目を押さえもがき苦しむ俺、誰がどう見ても形勢逆転が起きていた。
 大女が何かを吹き付ける瞬間、間一髪で顔面を右に逸らし目を閉じたが左目へ被弾してしまった。
 
「畜生、てめえ何しやがった!くそっ、来るな!」

 まだ開けない左目を片手で押さえながら、もう片方の手でバットを振り回して距離を詰められないように必死の抵抗をする。
 こいつに武士道なんてものは初めからなかったのだ。卑怯な一撃をくらい俺は戦意を喪失しかける。だが未来を守る為にもできる限りの抵抗を続けた。

 顔にかかった液体を確認する為に目を押さえていた掌を見ると、真っ赤に染まっている。なんだこの液体は!?奴の血液か?だとしたら最悪の場合感染症などを引き起こすかとしれない。絶望の中、右目のみで大女との距離感を掴むべくより必死になる。

 大女はケタケタと笑い、苦悶の表情で目を押さえる俺を挑発するかのように動き回っていた。目潰しの効果は予想以上だ、得体の知れない液体への恐怖で俺は半ばパニックに陥る。

「くそっ、やばい目見えない!お前、何をした!!ふざけんなっ!くそっくそっくそっ!!!」

 残りわずかな体力でバットを握り、せめて奴と差し違えてやろうと振り回す。細いトンネルの中でバットの先が何度も壁に当たり、甲高く耳障りの悪い音が連発する。大女はひらりひらりと遊んでいるようにそれを軽く避けている。

 すると大女の動きがピタリと止まり、足元に落ちていた手斧を拾い上げたのが見えた。決着をつけるつもりだろう。
 
 ああ、もう終わりなんだ。これからこいつに殺される。分が悪すぎた、武器の有無など関係ない、もともと勝ち目などなかったのだ。奴は人間兵器だ、吹き掛けられた謎の液体がとても目が染みる。こいつはスマートな空手家でもなんでもない、狡猾で残忍なただの犯罪者。そこを過信しすぎた俺の敗北だ。

 せめても未来だけはとまだ気を失っている彼女の前に立ち、大女に吐き捨てる。

「おい、この子だけは見逃してやってくれ!」

 大女は無言のままこちらを見下ろしている。なんだ、襲おうと思えばすぐにでもやれるはずだが。奇妙な事に大女が一歩も動かない。さっきまであれほど元気に動き回っていたはずだが。

 しかし大女の顔は異常なまでに殺気を帯びている。憎悪を詰め込めるだけ詰め込んだような目つきと、悔しそうに噛み締めた白く大きな歯が見える。どうも大女の様子がおかしい。なんだ?昨日と同じだ、奴は金縛りにあっているみたく身動きが取れないらしい。そして、急に振り返るなりそのまま猛スピードでトンネルを駆け抜けて行ってしまった。これも昨日と同じ展開ではないか。何がしたいのか一切理解ができない。とどめを刺すのはまた今度ということか、それは勘弁願いたい。もう二度と奴と対峙したくはない。

 ああ、だめだ大女が去っていたのを見て俺は全身の力が抜ける。あまり目を擦らないようにハンカチで顔を拭くと、布が薄紅に染まった。どうやら血ではない何か別の液体のようだが、それでもこれが何かわからない。
視界もぼやける、奴に食らった目潰しが段々と癒えていくかのように、少しずつ開き始めるがそれに反して意識が薄れゆく。
 俺は未来の隣に座り込み、同じような姿勢でトンネルのひんやりとした壁に全体重を預けた。くそ、かなり体力を消費したらしい。体力だけでなく精神的にもかなり緊張していたので一気に疲れが襲う。
 ぼんやりとしたまま夢を見ているかのような感覚に陥るが、ひとまず奴との死闘は相手側の戦略的撤退?で幕を閉じたようだ。
 しばらく休もう、そう目を閉じかけた時目の前に見覚えのある人物が見えた気がする。

「渡…さんか?」
 
 壁にもたれ座り込んだ俺の前に、思いもしなかった人物が姿を表す。渡霞が静かに、優しい微笑みをこちらに投げかけている。幻覚かもしれないが、あまりの美しさに心を奪われそうになりながら俺は未来の掌を握る。


「もう大丈夫だよ。」


渡が助けてくれたのか、これは夢なのか、分からないがその言葉に俺はこの上ない安堵を覚えた。

「ああ、そうか。ありがとう。できれば警察呼んでほしい…。」

俺はそう言い残し、ガクッと項垂れる。そこから先は記憶がない。目を閉じたと同時に俺の意識は完全に消えた。
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