第8話 曇天

文字数 3,926文字

 眠れない夜を超えた朝は、そのツケが回ってきて非常に不快である。昨日は結局深夜の2時まで眠れなかった。ひどい眠気に襲われ今にも二度寝してしまいそうになる。

 眠れなかった理由は言うまでもないが、防犯もとい恐怖心を消す為に電気をつけたまま眠り、いつも涼を得るために開けていた窓も完全に締めていたので非常に蒸し暑く寝苦しかった。もちろんクーラーで冷やすと言う手もあったが、部屋の照明をつけたままにしておりその上クーラーをつけると電気代がかかってしまうので断念した。
 
 朝の7時15分、携帯電話のアラームと目覚まし時計のけたたましい音が鳴り響く。今日からまた学校か、気分が上がらない。窓の外からリズミカルな小雨の音が聞こえてくる。そう言えば昨日の夜中から雨音が聞こえていたような気がする。
 新しい朝は決して希望の朝ではなかった。目覚ましを消した後もなかなか起き上がることができなく5分くらいたった。

「仁、あんた起きてんの?早くしないと学校遅れるよ?」
 一回の廊下から母の平日のルーティンと化した大声が響いてようやくハッとする。

「起きてる、起きてるから!ちょっと待って。」
重い足取りのまま、自室を出て一回のリビングに行くと既に俺以外の家族が食卓を囲んでいた。

「おはよう、今日雨だから学校まで乗せて行ってやろうか?もちろん直幸くんも一緒に誘ってさ。」

 既に朝食を食べ終えテレビニュースを見ていた父が気前よく俺に言ってきた。
 先日48歳の誕生日を迎え、人生の折返しを迎え会社でもそれなりのキャリアを積んできた父は、どこか心に余裕ができてきたように朝から上機嫌だった。
魅力的な提案だが車で登校すると父の職場とは反対方向の道を行くことになり、申し訳ないので断ることにした。

「おはよう。いや、今日はいいや。大丈夫だよ。雨も大したことなさそうだから。」

「そうか、藍は駅まで乗っていくってさ。」

 父は残念なのかそうで無いのかよくわからない調子で返答をしてきたが、俺は気にせず用意された食パンにベーコンエッグを乗っけて貪る。
ご機嫌の理由は姉と出社できるからのようだった。

「あんたは近いから歩きでもいいよね。」
つい数年前まで同じ中学に通っていた藍が嫌味っぽく言ってくるので俺もムキになる。

「姉ちゃんの高校って習志野の辺りだろ。もっと近くの高校にすりゃよかったのに。」

「あっちの方が帰りにいろんなとこに寄り道できてそれに関しては中学より楽しいよ。」

 俺も来年には高校に行くわけだが、同じような思考になっていくのだろうか。成績の良い工藤と片桐と同じ高校に行くのは正直厳しいだろうし、上野と佐野はそもそも高校に行けるかすら怪しい。

「藍、あんまり寄り道しちゃダメよ。犯人が捕まるまでは特にね。」

 また母が通り魔の話をしている。俺以上に敏感になっているのかもしれない。自分の子が事件に巻き込まれたらどんな親だってショックだろう。昨日は運が良かったが今日は無事に家に帰ってこられる保証はどこにも無い。

「大丈夫でしょ、どうせすぐ逮捕されるよ。ねぇそれよりパパ、駅じゃなくて学校まで乗せて行ってよ。」
 母の心配も上の空で、藍は携帯電話を操作しながら厚かましい発言をしている。まったくもって危機管理能力が低すぎる。別に俺は姉を嫌いではなかったが、自己中心的な性格で世間知らずな面が前面に出ており、きっと女に嫌われるタイプだろうと内心思っている。

「ハハハ、じゃあパパも一緒に学校まで行って授業受けようかな。」

「良いよ良いよ、でもクラスでは話しかけないでね、変なおじさんと仲良いと思われちゃうから。」

 朝から姉と父の茶番を見せられて心底気が滅入る。父は藍にかなり甘いが、あのワガママな性格を助長しているのが分からないのか。
 

「二人ともそろそろ出なくていいの?車だって道混むでしょ?仁も早く食べて支度しないと遅れるよ。」
 母が俺たちに出発を促す。若い頃は父と出会った場でもあるお堅い企業に働き詰めだったので、タイムマネジメントには少々うるさい。
「そうだな、藍はそろそろ行けるか?」

「行けるよ、そろそろ行こっか。」

 父は溺愛する娘と出発できることに浮き足立っているようだ。程なくして二人が家を出て、母親が玄関まで見送りにゆく。
 俺もその間に洗面所で歯磨きをして顔を洗い、野球部引退後やっと切る必要がなくなった髪を整える。8時に片桐と待ち合わせだったのが、余裕を持って行動していた為7時45分には家を出る準備ができた。

 「俺も行ってくるわ。今日も始業式の後学校残ってちょっと勉強するかも知れないからすぐには帰ってこないと思う。じゃあいってきます。」

律儀に玄関まで見送りに来ていた母親に告げる。

 「あんまり詰めすぎないようにしてね。気をつけていってらっしゃい。」

 母に送り出され家を出ると雨は強くなってはいなかったが、広がる曇天が今にも大雨を降らせてやろうかと厚い雲の層を何重にも重ねて空から見下ろしていた。
 朝なので大女との遭遇は限りなく低い確率だと頭では理解していたが、空模様が俺の不安を駆り立てる。
 家の前の道を歩き、待ち合わせの分かれ道に行くともう既に片桐が立っていた。

「あれ、片桐早くね?新学期だからって張り切りやがって。」

「なんか落ち着かなくてよ、そう言うお前も10分前行動とは見上げた心構えじゃん。」

そう言われて携帯電話の時計を見ると、確かに7時50分と予定よりもだいぶ早く到着したことに気づく。

「久しぶりで全然時間の感覚掴めなくてさ。もっとゆっくりできたのか。」
学校に向けて俺たちは久しぶりの登校を共にする。
「俺も同じだわ。それより永瀬、昨日変なこととかは起こらなかったか?」

「いや、特にはなかったけど。なんで?お前んちにあの女現れたのか?」

「別に俺も変なことは起こらなかったんだけどな。だから逆に昨日のこと全部夢だったんじゃないかってぐらいに思えてきたぜ。」

片桐の身にも特段変わったことは起きていなかったようだ。そこからしばらくは女の話も出さず、学校に行くのが面倒だの忘れ物したかも知れないだの他愛の無い話をしながら雨の中進んでいった。

 そのうち周りにも他の中学生が学校に向かうにつれ増えてきて、今日からまた新しい日々が始まると言うことが現実味を帯び始めてきた。

 それを見て片桐がポツリと呟く。
「あいつらも行きたくねーって思いながら歩いてるんだろな。雨も降ってるし。」

「いや、久しぶりの学校で変にワクワクしてる奴も多いんじゃ無いか?」
そんな会話をしていると数メートル先に横断歩道を横切ろうとしている一人の女子生徒が見えた。
俺はなぜかその少女から目が離せなくなる。

前下がりの短めのショートボブは肩につかないくらいの長さで、非常に美しい髪をしている。
 横顔しか見えないが、顔立ちの方もかなり整っているようだ。はっきりとした目立ちはどこか中学生離れしている。身長は同年代の女子生徒と比べれば少し高めか、160cmほどはありそうだ。夏服の白いセーラー服がよく似合う、そんな可憐な少女がいた。何より気になるのは少女が胸につけた名札の色だった。

「ん?あんな女いたか?名札の色、三年生だよな?」
片桐もその少女に目をやっていたようだ。横断歩道を渡る少女の左胸には俺たちと同じ学年の色の名札が付いていた。この学校は学年により名札の色が異なり、三年生は赤い名札をすることになっていたが苗字までは距離が遠くて見えない。

「知らないな。転校生かも。それか夏休みでビューってやつか?」
俺は自分でもよく分からないことを言った。どちらにせよ、見覚えのない同級生が目の前にいるのはすこぶる奇妙だった。少女は既に横断歩道の半分を渡り切っている。こちらの声は聞こえない距離のようだ。

「それにしては落ち着いてるな。しかも結構美人ときた。こいつは夏休み明け早々争奪戦か?」

「お前、稲川に密告するわ。」

「マジでくだらない。嘘だよ、ジョークがわからんやつだな。」

 俺たちが少女に目を取られている間にすっかり当の本人は横断歩道を渡り切っていた。

「あっ、やばい。信号点滅してるぞ。ここ変わるまで長いんだよな。」
片桐がそういい俺たちはすこし駆け足気味に横断歩道に向かうが、時すでに遅く歩行者用信号は赤く変わってしまった。

「まぁいいだろ、時間あるしゆっくり行けば。」
 学校の近くの横断歩道は近隣の住民の目が厳しい。ちょっとの事で学校に通報されかねない。下手なリスクを負う必要は全くなかった。

 すると次の瞬間、また奇妙なことが起きた。
車用信号機が黄色に変わった瞬間、少女が突然こちらに振り向き俺たちに向かって柔らかく微笑みかけてきた。俺たちは呆気にとられる。ここで俺は確信した、少女側は俺たちの存在を認識していると。そして、俺はあの少女に全く見覚えがないことも顔を見て再確認した。
車用信号の色が完全に青に変わり、それぞれの朝の道を急ぐ人々の車があっという間に俺たちと少女の間の道を行き交う。

「おい、あの女…。こっちみて笑いやがったぞ。俺たちが横断歩道渡れなかったからってマウントを取ってきたんだ。」
片桐が冗談か本気かわからないが、検討外れなことを口にする。

「そうじゃない、あの女何者だ?俺たちのこと知ってるのか?」

信号が変わるまでの間の数分間、俺たちは立ち尽くすしかなかった。

 
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