第26話 夢
文字数 2,593文字
俺が目を次に覚ましたのは22時30分ごろだった。母親が部屋の戸を叩き、風呂に入るよう告げて来たので、そこで眠りから現実に引き戻される。
俺以外の家族はみんな風呂を入り終えているようだった。寝ても覚めても現実とは思えない世界が続いている事に嫌気がさしたが、とりあえず一階に降りてニュースをチェックする方が先だった。
ただ携帯電話にメンバーから特段何かそのような報道があったような連絡も無く一安心する。
リビングに行くと父がソファに大股を広げ座り、ちょうど夜のニュースを見ているところだった。仕事の疲れを癒すため、缶ビールを片手に晩酌を楽しんでいる。
「お、仁か。いや〜今日はロッテもジャイアンツも勝ったから最高だな。明日も勝つといいけどなぁ。」
「あ、勝ったんだ。良かったわ、今日負けてたらどっちも3タテだったもんな。」
俺も父の横に腰かけ、寛ぐ。もうスポーツニュースの時間になっていたので他のチャンネルに変えようかとも思ったが、父の様子を見ても何か重大な事件が起きたようには見えなかった。
「そうだ3タテするところだった。今年の日本シリーズはどっちかは来てほしいなぁ。」
父も昔は野球少年だったためか、その名残で今も毎晩野球の結果を気にしている。
上機嫌な父はスウェットのポケットの中から隠し持っていたであろうメビウス・ライトを取り出し、これまたポケットに忍ばせていた100円ライターを取り出し火を付けようとする。よく見るとテーブルの上に庭の室外機の上にあったはずの灰皿が当たり前のように置かれている。
「あっ、ダメじゃん。家の中で吸ったら母さんに死ぬほど怒られるよ。」
「いいんだよ、母さんはお前を起こしに行ってそのまま寝たから。明日の朝までに匂い消せばバレないバレない。」
と言ってひと吸いし、俺に煙がかからないように美味そうに煙を自らの真上に吐き出す。
父は何年も前から家の中で喫煙することを母から許されておらず、たとえどんな季節でも雨が降ろうが槍が降ろうが石にかじり付いてでも庭にタバコを吸いに行っている。
だがこのように時たま母の目を盗んで家の中で紫煙を燻らせている。この事は母も薄々気付いており、部屋がタバコ臭いと時折ボヤいていた。
「まぁ俺は気にしないからいいけどさ。」
俺は本当に気にしていなかったが、この家の女性陣がそこに関してはうるさかった。
父の悪事の片棒を担いでいる意識などチリほどにもなかったが、それよりも今は今日起きた事件の情報が欲しかったので構わずテレビを見続ける。
15分ほど経過した上に他のチャンネルも確認した、今のところ船橋で通り魔が起きたようなニュースはやっていなかった。携帯電話のネットニュースも同様で、本当に事件が起きたのかさえ怪しくなってきた。
しばらくして父も歯を磨き、寝床へ向かったので俺も風呂に入って再び寝る準備をしなければならなかった。明日は色々な意味で決戦だった。渡の正体を暴く、そして大女の逮捕、俺たちのようなちっぽけな中学生にやり切れるだろうか。考えても仕方のないことばかりが目の前に山積みになっている。
湯船に浸かりながら、ひと時の安らぎに身を任せるもまたも睡魔に襲われる。かなり眠ったつもりだったが、相当疲れが溜まっているようだ。自分たちで対処できない問題が次から次へと立ちはだかっているのだ、無理もない。
必死で朧げな意識を保ちながら、頭と体を洗い早々に風呂を出てる。明日から通常授業が始まるわけだが、勉強以外の不安が大きすぎた。体を拭き、まだ短いが坊主頭からだいぶ伸びた髪を速やかに乾かし、台所で冷えた麦茶を飲み心を落ち着け、再び自室へ向かう。
ベッドに倒れ込むなり、そこから意識がなくなるまでは早かった。
ふと気付くと、俺は夢を見ていた。夢だとはっきり認識できたのは目が覚めてからのことだったが、いつもの炭焼き小屋にいる夢だった。
自分以外に誰もおらず、座り慣れたはずのパイプ椅子に腰掛けていたが、夢の中の歪んで虚な感覚がはっきりしない世界に心が落ち着かない。
しかし誰もいないと思っていた小屋の中に、突如確かな輪郭を持った人影が木の机越しに現れる。それを見ても俺は特段驚かなかった。
「ああ、渡か。」
目の前に立った人物は少し意外な人間であった。中学指定の夏服の白いセーラー服を着て見慣れた紺のリボンをしており、それと同じ色のスカートを履いた少女、渡霞が優しく微笑みかける。昨日見せた不敵な印象はそこにはない。
俺は渡のことをまるで知っているかのように、懐かしい感覚を覚えた。夢の世界ならではの、現実とは違う設定がそこにはあった。この世界では俺は渡のことをちゃんと一人の友人として認知している、そんな気がする。
「ありがとね。」
虚を突くような渡の言葉に、夢の中の俺は戸惑った。渡りに何かを感謝されている。当然何のことかは分からない。
「いいんだよ。」
驚きながらも何故かそう答える夢の中のもう一人の自分、渡の顔は現実世界と同じように可憐で美しかった。
俺がそういうと渡が憂を含んだ柔らかな表情でこちらに語りかける。
「これから起きる現実に、最後まで向き合う自信はある?」
「当たり前だろ。」
何の話をしているのか全くわからなかったが、これが深層心理の領域なのであろうか。渡の存在が現実とリンクしているのか、分からないが話は勝手に進んでいる。
「そうだよね、永瀬くんはリーダーだもんね。」
渡りはまた少し物憂げな顔をしたあと、こちらの目を見てはっきりとそう言った。
この場合のリーダーとはいつも一緒にいる炭焼き小屋グループのことを指すのであろう。夢の中の彼女はそれを知っていたのか。
それから俺が何かいう間も無く、続けて渡が笑って言う。
「守ってあげるね。」
俺が驚く間もなく、フッと渡の存在が視界から消える。小屋の中を見回すも、渡はすでにどこかに消え去っていた。俺はすぐに外へ出て渡を探すがただ馴染みの林道が、高く青い夏の空が、現実と同じように広がっているだけだった。
そこから記憶がなくなる。喜怒哀楽のどれにも当てはまらない、ただただ胡乱な夢の世界はここで終わったようだった。