第44話 毒霧

文字数 4,458文字

 その後、警官二人と未来と共に俺は眼科の前まで見送られた。この間の安心感は何物にも変えがたいだった反面、早く永瀬達に連絡しなければと焦る気持ちも募っていく一方であった。あいつらもやきもきしているに違いない。

 だが警察の手前、表立って連中に連絡するタイミングなどもなかなか無く病院で診察を受け次第すぐに電話をかけようと決めていた。

 谷口眼科に到着し、未来と警官たちと別れた。未来はこのまま警官たちに家まで送ってもらうとのことだったので、それを安心して見送る。

 病院に入るなり、真っ直ぐフロントに向かい受付をしていたナースに症状を伝えるが、色々あって目に薬品のようなものがかかったとだけ話した。
 
 流石に事細かく説明して話がめんどくさくなるのはごめんだったので、どのような流れでそうなったかはあえて伏せた。後で診察を受けている時に医者本人に伝えればそれで良いだろう。

 それからしばらく待合室で自分の順番まで待つこととなった。幸い、病院は混み合っておらずこの分なら10分ほどで診察してもらえるだろうか。
 もう目の痛みはすっかり引いていたがそれでも一目見て真っ赤に充血している為油断はできない。

 そして大女のその後及び渡を追っていた永瀬達の動向も気になる。早く奴らに連絡してやらないと危険だ。携帯電話を確認するとやはり数件のメッセージが入っている。

『まだ?』

『早くしろよ。』

『おい、携帯見ろ。』

『お前連絡返せないなら携帯解約しろよ。』

『渡が消えた。』



全て工藤からだった。最後のメッセージはどういう事なのか、分からないが既に連中は渡を見失ったという事がはっきりとわかった。だとしたら俺の前に現れた彼女は本物だったのか?どっちにしろどこかのタイミングで尾行が失敗したということは間違いなさそうだ。

 最後の連絡が来た時間帯を見ると俺が気を失っていた頃だろう。すぐにでも確認するために返信したかったが、そろそろ診察に呼ばれそうだったので一旦は携帯電話をしまう。
 
 「片桐さん、片桐直幸さーん。」

 受付のナースに名前を呼ばれたのはその直後だった。他に患者の姿がなかったので当たり前といえば当たり前だが、俺はすぐに診察室へ案内される。

 そこに入ると初老の男が白衣で俺を待ち構えていた。物貰いができた時など、数年に一度はお世話になる谷口院長は、最後にあったときの記憶と同じく瓶底メガネと白髪を携え背中を丸めた体勢で椅子に座っていた。

「えーっと、片桐さんですね。本日は目に薬品が入ったということで間違いないですかね?」

 院長が俺のカルテをまじまじ見ながらそう尋ねてきたので俺もそれに答える。

「はい、どんな薬品かは分からないしそもそも薬品かどうか分からないんですが左目にかかってしまいました。」

「うーん、どんな薬品かわからない?確かに左目がひどい充血をしているね。ていうか何をしてて目にかかったの?」

院長が訝しげな顔で質問を続けてきた為、俺はここでは正直に話すことにした。隠していても仕方がない。

「それが、不審者にかけられたんです。口から赤い液体のようなものを。最初は血か唾かと思ったんですがもっと霧状のものでした。」

「えぇっ!不審者に?不審者ってこの辺りで最近噂になっているやつか?目はすぐに洗った?」

院長が驚くのも無理はない。赤い液体が付着した俺のワイシャツを二度見して、眉をひそめながら聞き返す。

「はい、そうだと思います。目は洗えてないです、一瞬の出来事だったんですけど本当に口から吹き付ける感じで…。」

「ああ〜それは災難だったねえ。目に何か入ったら絶対にすぐ洗い流さないと駄目だよ。一応口に入れてたってことは劇薬では無いだろうけど、ちょっと調べてみようか。」

「はい、お願いします。」

そこから院長に診察をしてもらうが、確かに大女は口に含んでいた事を考えると、今更ながら液体の正体はそこまで危険なものではなかったのでは無いかという考えが生まれた。

 考えてみれば簡単なことだが、もしそんな有害な物なら大女が口に含んだ時点で本人にも影響があるだろう。

 「うーん、ちょっと左目全体で炎症を起こしてるね、でも今のところ見えにくいとかは無いなら失明の心配はないね。」

「ほんとですか!かかった瞬間は目が染みるように痛かったんですけど、今はだいぶ痛みがひいてます。」

院長が一通りライトなどを使い光を当て角膜を調べた後、そう言ったので俺も胸を撫で下ろす。
 

 「ただね、これがなんの液体までかは分からないな。おそらく危険な薬品ではない何かだと思うけど。」

「そうですか、でも薬品でないということが分かっただけでも良かったです。」

 「多分だけど、食紅か何かを吹きかけてきたんじゃないかなぁ。所謂紅生姜のようなものだね。」

その言葉を聞き、俺は耳を疑う。紅生姜だと?あんなに大騒ぎして病院に駆け込んだ結果がこれか。安堵と共に拍子抜けした俺の心情は複雑だった。

 「え、紅生姜ですか…。確かに赤かったですが。」


「いや、わかんないけどね。私結構プロレスが好きなんだけどね、ヒールレスラーが毒霧ってのを吹いたりするんだけど、それじゃないかなぁって。」

 不意に院長の口から毒霧という単語が出る。聞き慣れない言葉ではあるが、なんとなくプロレス技の一種であるという認識だった。
 院長は往年のプロレスファンなのか、やや興奮気味に毒霧説を提唱しているがそれを聞いたこちらは当然困惑する。

「毒霧ですか…?聞いたことはありますけど…。」

「話を聞く限り毒霧みたいだなぁって。口の中に入れたゴムに毒霧の元を仕込んで、素早く噛み切って噴出するって仕組みだと聞いたことがあるよ。毒霧の材料は食紅だったりするんだって。嘘が本当か眉唾な話だけどね。」

 院長は感心したかのようにしみじみとそう話す。よく思い返してみると、大女はふらつくフリをして口の辺りを拭っていたような気がする。

 一瞬の隙を突いて目潰しの毒霧を口に仕込んだのだろうか、そんなものを作り更に持ち歩いているとは狡猾卑劣、そしてそれらの表現を遥かに凌駕する大女の異常性を改めて痛感した。


 「まぁ、とにかく毒霧を直に受けた人間なんてプロレスラー以外だと君ぐらいだと思うよ。世界中でね。」
 
 この院長も院長で俺がさも貴重な体験をしたかのような語り口でそう言っている。人が数時間前まで死と隣り合わせだったと言うのに、なんとも能天気な男だ。


 「はぁ、そうですかね。とりあえず目の方は大丈夫だという認識でいいですか?」

呆れた俺はもうとっとと薬をもらって交番に行こうと話を切り上げようと試みる。

「そうだね、一応目薬を出しておくから。あと眼帯も渡しとくよ、万が一目の免疫力が落ちていたら感染症にかかってしまうから。」

「ありがとうございます。それじゃあ失礼します。」

 そう言って席を立ち診察室を後にする。受付付近のソファに腰を下ろし、とっ散らかった頭を整理することにした。あの院長が言うことを全て盲信するわけでは無いが、どうやら大女が吹きつけてきた物は毒性のない物でほぼ間違いないだろう。

 自分はとんでもない劇薬を浴びたと思い込んでいたが、あの赤い液体の正体は紅生姜か何かから着色した水だろう、と無理やりにでも解釈することにした。ただ有毒物質でないにしろ、大女は普段から人を襲うことばかり考えているのだろう。
  どこまでも用意周到、そして卓越した格闘技術は俺の想像の範疇を軽く飛び越えていた。
 
 そして渡について。もしあのタイミングで現れたのなら、大女となんらかの関係性があるのだろうか。炭焼き小屋メンバーがどの段階で渡を見失ったのか分からないが、あのトンネルは渡の家があるとされる方面とはまるで逆方向。これも説明がつかない。何を優先して考えるべきか、俺の脳内はもう既にオーバーヒートを起こしかけていた。

 それからすぐに受付で名前を呼ばれ、診察料を支払い処方箋を受け取った。なかなか痛い出費だったが、倹約に倹約を重ねていた俺はとほほと思いながらも何食わぬ顔で病院を出て併設されている薬局へと向かった。

 薬局の方も特段混み合ってはおらず、処方箋を差し出すなり五分もせずに目薬と眼帯を受け取ることができた。薬局を出てこれから交番への連絡、そして仲間たちへもこの事実を伝えなければならない。これから交番へ行くとまた拘束時間が長くなるので、先に炭焼き小屋に集まったメンバーへ電話をかけることにした。

 とりあえず工藤に連絡しよう。もうとっくに痺れを切らしてしまっているはずだ。すぐその場から離れるように話さなければならない。
 携帯電話を開き、工藤の連絡先から電話をかける。3回ほどコール音がなった後、工藤の勢いの良い声が聞こえた。

「もしもし?お前なにしてんの?遅すぎだろ。」

「遅くなってごめん。落ち着いて聞いてくれ。さっき大女に襲われた。お前らも早く家に帰れ。」

 あえて手短に伝える。一番重要なのは奴らを素早く帰宅させることだ。渡の正体の手掛かりを掴み損ねた上に俺の連絡が遅かったことで工藤の機嫌はとても悪そうだったが、俺の話を聞いて怒りより不安を露わにし始めた。

 「えっ?なんて?えっ、お前冗談だろ。嘘だよな?」

「嘘じゃねえよ。今病院に行ってきて、これから警察に行って被害届出すんだよ。また夜にお前らに電話するけど。とにかく大女はまだ逃げててそこも危ないからお前らも今すぐ帰れ。じゃあな。」

 電話越しに工藤が慌てふためく様子が手に取るように伝わる。あまり時間がないが特に伝えたいことは二つだ。まず俺が無事だということ、もう一つは外にいる事は危険だ、当たり前だがあいつらは馬鹿なのでいつまでも俺を小屋で待っている可能性がある。
 そしてそろそろ交番の方にも行かないくてはならない。工藤も俺に言いたいことや聞きたいことが山のようにあるのだろうし、こちらもそれは同じだったが悠長に話している暇はない。とにかく今は早くその場から離れて欲しかった。

「お前大丈夫なのかよ?おい?待て!」

「悪いな、今はとにかく絶対すぐ帰れ。夜詳しく話してやるよ、後でまた。」

 そう言って俺は一方的に電話を切った。工藤はまだ何か言いたげだったが事態が切迫している事が、必ず家に帰るように言ったのが伝わっていれば今はそれで十分だ。
 これから警察に連絡をして交番へ向かわないといけない。休む暇もなく目まぐるしく状況が変わっている。俺は先ほど薬局で受け取った眼帯を取り出し、しっかりと左目に装着し一呼吸つく。
 続いて今度は交番の電話番号を検索し、電話をかけることにした。



 



 
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