第15話 微笑
文字数 4,062文字
提出物を出し終わると、岸田が全員を席に座らせ話し始める。
「はい、皆さん改めてお久しぶりです。夏休みはちゃんと勉強してましたか?佐野くんちゃんとやってましたか?」
かしこまった口調でクラス全体を見回す岸田が最後にぼんやりと天井を見上げていた佐野のに語りかける。
「やってましたよ…。」
蚊の鳴くような極小の声で佐野が呟くが、さっきのこともあってかクラスがシンとする。変な意味でよく目立つ佐野だが、ここでも存在感を示している。
「本当かな?他のみんなもこの夏は勝負の夏だったと思う。再来週には学力テストも控えているので、そこでまずやってきた成果を出してほしい。」
学力テストか、耳が痛い。今は謎の少女と昨日の大女のことで勉強に身が入らなそうだった、だがやらねばならない。
それは俺たちだけに限らず、夏休みに燃え尽きた者も数名いるようで湿気と蒸し暑さの中、気怠そうにただ時が過ぎるのを待っているように見える。
一方で渡の方へ視線を向けるが、先ほどとは打って変わって凛とした表情で岸田の話に耳を傾けている様子だった。本当に今までずっと俺たちと日々を共にしていたのかとしれないと錯覚すら覚える。
「さて、話は変わるが始業式中にも話に出ていた通り地域で残念な事件が起きてしまった。校長先生も仰っていたが、不審な人物を見かけたらすぐ大人に知らせるようにな。それから当たり前だが夜遅くの外出は控えるよう。みんなが犠牲にならないためにも、よろしく頼むぞ。」
文字通り話がかなり変わった為、少し心臓に悪かった。だが岸田の力強い言葉に、心が動く。俺は2度とあの女には会いたくなかったのは勿論だが、次もし奴を見かけたら今度は絶対に通報しようと硬く誓った。
岸田一樹はまだ若い新米教師であるが、厳格さの中に優しさを兼ね備えた生徒想いの男だった。その真剣な言葉が胸に刺さる。
その後岸田が今日以降の学校行事について軽く説明を始めた。体育大会に文化祭、全員の一致団結が欠かせないイベントが目白押しであったが、これから先クラスの一員としてずっと渡も参加し続けるのかと思うと複雑な気持ちだった。
もう全ての学校行事に最後の、が冠言葉のように付き纏う。そこに知らない同級生が3年間共にしたような顔で居座るのはとてつもなく気持ちの悪いことだった。
「よし、じゃあ今日はここまで。部活動がない者は極力居残りは控えるようにな!」
岸田がそう言って新学期の1日目が終わる。新たな季節の幕開けは恐怖と謎の始まりでもあった。
挨拶を終えるとすぐに俺の席の周りに炭焼き小屋メンバーが集い、教室の外へ出る。渡はいつの間にかもう教室を後にして、さっさと出ていってしまっていたが俺たちも先ほどのような派手な動きができないと踏んでいる為、無理に追うようなことはしなかった。
「色々言いたいことがあるけどそれは後にして行くか。」
片桐が一刻も早く教室から去りたいそぶりを見せる。それは早くせねば稲川に捕まるという危険を意味していた。
「そうだな、佐野さんの大暴走にも言及しないとだしな。」
工藤が佐野に釘を刺す。さっきの戦犯は間違いなく佐野だった。
「大暴走じゃねえよ、結果的に色々セーフだっただろ?」
「何がセーフだよ、ランナー一塁ショート真正面6-4-3くらいの大アウトだよバカ。」
「そんなにか。」
佐野は悪びれる様子もなかったが、片桐が野球の守備に例えるとなぜかひどく落胆する。
「そうだよ、後でたっぷりこいつの奇行についても聞こうぜ。」
俺はそう言ってからやってしまったと気づく。
佐野以外の全員に総ツッコミを喰らってしまう。
「うわ寒っ。こいつ昭和生まれか?」
「聞こうと奇行で掛けたんだ、へぇ〜やるじゃん。」
「おいおい、お前おっさんかよ。」
「違う、たまたまだから!」
標的が佐野から俺に変わる。今日はなにかと弁解が多い1日だ。
「なんか永瀬の親父ギャグで忘れちゃったけど、俺なんか言おうと思ってたんだよな。」
突然、佐野があたかも俺のせいだという口ぶりで難しい顔をする。
「どうせ大したことじゃねえだろ。今ので忘れるくらいなんだから。それに今の別に親父ギャグじゃないから。」
「間違いない、思い出せたら言うけどとりあえずいいや。」
上野が言うと佐野は思い出すことを放棄してしまった。おそらく大したことではない。
それから廊下を歩いて昇降口に向かっていると、後ろから何者がすごい勢いで誰かが走ってくる音がする。何かと思って身構えるとと同じように振り向いた片桐に勢いよく女が抱きつく。この光景はつい先ほども見た。
「うおっ、未来か。危ないじゃん。」
予期してはいたが稲川未来、その女だった。片桐の体にしがみつき俺たちのことを気にも止めず甘えた声を出す。
「ごめーん、なお君。今日、ブラバンの練習あるから一緒に帰れないの忘れてた。」
片桐含めた他のメンバーも安堵の表情を見せる。稲川は吹奏楽部に所属しており、基本的に吹奏楽部員は文化祭が終わるまで活動が続く。
「お、そうか。じゃあこいつらと帰るからまた夜電話するわ。」
「うん、それはいいんだけどね、不審者怖いから部活終わったら迎えにきてほしいなぁ。」
稲川のふざけた提案に対する片桐の次の言葉に注目する。
「え、でも未来の家近いじゃん。友達と帰った方がいいんじゃないか?その方が安全だよ。」
「そんなぁ、私が襲われてもいいってことね?」
片桐も言葉を選んでいるようだが、何を言っても度を超えた返答が待っていた。
「そんなわけないだろ、まぁとにかく行けたら行くよ。夜は絶対電話するからさ。」
「分かった。迎えにきてる時にナオ君が襲われるのも嫌だからね。夜必ず電話してね。」
「おう、任せとけ。」
なんとか窮地を凌いだ片桐であったが、なぜか突然佐野がその場に割って入る。
「なぁお前、俺らのクラスの渡って女知ってるか?」
なぜ佐野がそんなことを言ったのかわからなかったが、あまりにも急なことだったので全員が戸惑いの表情を見せる。
「知ってるけど?それが何?まさか霞ちゃん、ナオ君のこと狙ってるとか?」
稲川が佐野をすごい表情で睨みをきかせる。
「そんなわけないだろ。」
佐野より先に真剣な声で片桐が答える。
「いや、別になんもないけどよ。あの女可愛いよな。」
意味のわからないタイミングと目的不明な佐野の発言に俺たちは勿論、稲川も当惑している様子だった。
「は?なに。あんたあの子好きなの?全然釣り合わないからやめといた方がいいよ。まぁどうでもいいけどさ。」
稲川の声色が片桐と話している時とは全く違うことにも驚いたが、それは本当その通りだと上野がウンウンと頷いている。
それから部活の練習が始まると言うことで稲川は片桐にもう一度思い切り抱きついた後、俺たちに目もくれず片桐だけに手を振り去っていった。それを見送り俺たちもそれぞれの下駄箱の前まで行く。
「おい佐野、なんであんなこと聞いたの?」
工藤が通学用の白い運動靴に履き替えながら、当然の質問を投げかける。
「いや、渡は他のクラスの奴も知ってるのかなって思って。三組の奴だけがおかしくなってる可能性もあったろ?」
佐野が得意気に答える。
聞く相手は悪かったが、佐野なりに意外と深いところまで考えていたことに俺は驚愕する。
「おお、佐野にしてはいい着眼点してるな。最後はちょっと苦しかったけど。」
「当たり前だろ、この俺をただのバカだと思うなよ。」
「まぁそれは確かにな。でもそれを聞く相手を間違えてたな、未来の前で他の女の名前を出すのは基本的にNGだ。」
彼にとっては死活問題だったろう、またも佐野に振り回される形となった片桐に同情をする。
「今日は佐野さんの大暴れがとまんねぇな。」
怪我の功名と言うべきか、佐野のお手柄に上野がそう言って笑う。俺たちもそれに釣られ笑いながら外へ出た。佐野もしてやったりと言う顔で笑っていた。
空を見上げると雨は小降りにはなっていたが、午後の空模様も決して良いものではなく傘が手放せない。
外に出た途端、先ほどまで俺たちと同じように上機嫌に笑っていた佐野が今度は急に静かになる。
「どうした、急に黙り込んで。」
その様子をいち早く察知した俺が問いかける。
「いや、別にそこまで大事なことじゃないけどさ。さっき何か言おうとして忘れたって言っただろ?」
「言ってたな。思い出したんか?」
あまりの佐野の様子の変わりぶりに工藤が心配そうに問う。
「教室で色々あって先生がきて色々うやむやになって席に戻っただろ?戻る直前、最後にその、渡の方を見たんだよ。」
俺たちはそれまで大したことではないだろうとタカを括っていたが、どうやらそれは重要なことであるようだった。皆固唾を飲んで佐野の話に聞き入る。
「あの女、さっきまで泣いてた癖に多分だけど笑ってたんだよ。微笑むって感じかな?口角が上がるっていうか口だけニヤってしてやがったんだよ。」
微笑みなら俺たちも今朝見た、だが佐野の見た微笑みは明らかに俺たちが見たものとは違った意味を持っているように感じた。
「えっ?どういうこと?」
「嘘泣きだったのか?」
工藤と片桐が詰め寄る、佐野は必死に記憶を辿るように顔をしかめ、次の言葉を捻出する。
「いや、それはわかんねえ。でも俺それ見てゾッとしちゃってよ。みんなに確認しようと思ったけどその時渡の方見てたのは俺だけだったみたいなんだよな。意味わかんねえだろ。」
思えば岸田が来た後、佐野は周りを見回していたような気がする。
少女が見せた意図のわからない二度目の微笑。
不気味さを覚えたのか、佐野はそれ以上語ろうとしなかった。また一つ増えた謎について俺たちも深く考察することができなかった。