【1・中の国】ネトゲさいこー☆2
文字数 4,184文字
彼が釣りをしようと思っている「池」というのは、島の中程にあって、周囲を切り立った崖に囲まれている空間に、ぽっかり開いた水溜まりだ。
池といっても淡水ではなく、どこかで島の外の海と繋がっており、生息している魚はどれも海水魚だった。
池の上には大きくて厚い氷が常に張っていて、釣り師たちはみなこの上で氷の隙間に糸を垂らす。
枯れ木の並ぶ池の周辺では、太さ十五㎝くらい、長さ一mくらいの大きなミミズが地面から何本もウネウネと生えていて格好のレベル上げスポットとなっていたが、夜間になると、歩く骸骨や幽霊が闊歩する危険地帯に様変わりする。
彼が巨人の群れの中を抜けて池の側までやってくると、倒木の横で誰かが倒れている。側には中途半端に体力を削がれたミミズが天を仰いでうねっていた。
恐らくこいつとやりあって倒されたのだろう。
周囲には彼女の同行者は見当たらない。
体力を失って倒れていたのは、猫のような耳と尻尾を持った野趣溢れる種族の女性だった。
茶色の髪を眉で切りそろえ、ショートボブの髪は首の後だけ長く伸ばして束ねてあった。
まだレベルの低い冒険者が着る、体にぴったりとした、は虫類の皮で出来た茶色い鎧を纏っている。
「彼女」とは言ったが、実際中の人が女とは限らず、特にこの種族の女性は中の人が男なことも多かった。
そういったものをネットゲームの世界では「ネカマ」と呼ぶ。
Alphonceは、彼女を放置するのも気が引けたので、蘇生を希望するかどうか声を掛けてみることにした。
彼の職業は、二系統の魔法といくつかの武器を操る、この世界ではひどく器用貧乏な魔法剣士だ。
そのため蘇生魔術も心得ていたのだ。
とんでもなく器用貧乏なのは中の人も同じで、正直潰しの利かないこの職業が、今の自分にはけっこう相応しい、と彼は自虐的に思っていた。
とりあえず救出作業に入る前に、現在このエリアにいるPCをサーチしてみる。
どうやら彼女は日本人のようだ。
もっともAlphonceの中の人は十五カ国語も操るのだから、このゲームのプレイヤーの使う言語はほとんど網羅している。
誰が答えようとほとんど心配はなかったが。
彼はとりあえず現在時刻を確認した。
ゲーム内時間で、日没にはまだかなり間があるようだった。
蘇生後しばらくは衰弱している状態で、モンスターに襲われやすい。
万一、不死生物の出現時間と被ってしまうとやっかいだ。
連中は衰弱している者から襲いかかるからだ。
安全確認は済んだので、いよいよ彼女(かもしれない)に蘇生の魔法をかける。
詠唱を始めると、彼の体の周囲を気が取り囲み、燐光が舞い散り始めた。
中の人は胸がキリキリした。顔の筋肉が小刻みに震える。
心をざわめかせながら、表示バーの動きを揺れる眼で機械的に眺めていた。
Alphonceが詠唱を終えると、死体だった彼女の体の上に光の束が降り注ぎ、雪の上に横たわっていた華奢な体がふわりと宙に浮いた。
彼女の名は、『彼女』の名だったのだ。
恋しさに奪われかけた平常心を、彼は必死に取り戻そうと努力した。
鍛え上げられた軍人でもある彼は数瞬の葛藤の後、心の何割かの指揮権を取り戻した。
Alphonceが池の上に張った氷の上に招くと、彼女は長い尻尾をゆらゆら揺らしながら側にやってきて彼の足元でひざまずいた。
それが休息のポーズなのだ。
それを見届けると彼は当初の目的である釣りを始めた。
彼は腰から古びた竿を取り出すと、慣れた手つきで振り出し、ルアーを水面に投げ入れた。ぽちゃん、と音を立ててルアーは雪まじりの池にゆっくりと沈んでいく。
それを眺めながら、つい思いついたことを口にしてしまった。
やっぱりというか案の定というか、望むような情報は得られず、Alphonceは再び釣りを続行した。
彼は現在釣りのスキルを上げるためこの池によく通っているが、今日は日が悪いのか何なのか、釣果ははかばかしくない。
イラツキながら竿を何度も振っている。
リアルでのことでムシャクシャしていた中の人は、今日はダメだな、と思っていた。
彼は、猫の人の変化に気が付いた。
早速Alphonceは、猫の人に回復魔法をかけてやった。
一気に彼女のHPバーが、ググっと伸びて満タンになっていく。
早速、ご要望にお応えして、彼女に物理防御と魔法防御の強化魔法をかけてやる。
華麗にかつ素早く詠唱をするAlphonce。
詠唱のシメで片手を天に向かってひらりと挙げるモーションが、彼は特に気に入っていた。
うっかり外人扱いされるところだったのが、いつのまにやら自分はエリート商社マンになっていた。そんなのはここでは良くあることだ、と彼は苦笑した。
そして、鼻の頭の汗を手の甲でぬぐって、少しぬるくなったドイツ産ノンアルコールビールを少々、喉にトロリと流し込む。
事務所は空調がよく効いているが、自室の寝床は微妙に暑い。
トランクス一枚の尻の下がムレてきたので、彼はうつぶせに転がった。
彼が先ほどから彼女に施している「PL」という作業は、パワーレベリングの略称である。
高レベルプレイヤーに回復などの補助してもらいながら、早いスピードで経験値を稼ぐプレイスタイルのことで、モラル的にグレーゾーンなため、PLを嫌うプレイヤーは極端に嫌う。
が、キャラクターの育成にべらぼうな時間のかかるこのゲームでは、必要悪として捉える向きも多い。
Alphonceは彼女に、攻撃速度を上げる強化魔法を追加で施した。
そして、「手短な所からどんどん敵を倒していこう」と彼女に促した。
彼の仕事は、敵に削り取られた彼女のHPを湯水のように回復してやること。
こうすれば彼女は敵からのダメージを気にすることなく、連続して戦闘を繰り返すことが出来る。
彼女は尻尾を振りながら、懸命に大ミミズ相手に剣を振り回している。
やっ! と可愛い声を上げながら、バシバシと一心不乱にミミズを叩いている。