【2・麗のお願い】転院しよう。生きるために。2
文字数 3,172文字
結局、観光をする雰囲気でもなくなったため、あてどなく都内を車で流していた。
正直なところ、神崎は麗と二人でいられればどこでもよかったのだ。
カーステレオからは「浪漫飛行」が流れていた。
なんとなく、トランク一つぶら下げて世界中どこの戦場にでも行く自分には合っているような気がした。
国道246号線の青山付近を走行中、彼女が「喉が渇いた」というので近場に車を駐め、表参道のオープンカフェで休憩することにした。
外は暑いので、店内に入りたかったのだが、彼女がオープンカフェを体験したい、と駄々をこねるので、仕方なくテラスに席を取る。神崎一人なら絶対に入らないような小洒落た店だ。
グラスの氷をカラカラ鳴らしながら、つまらなそうに麗が言った。
店名をプリントした四角いコルクのコースターには、結露した水滴が作った水溜まりが出来上がっていた。
う~ん、とおおげさに頭を抱えて、おどけてみせた。
うかつに麗の気持ちを落とすことは、彼女の生きる気力を削ぎかねない。
こんな自分が誰かの精神衛生について神経を遣うのは、皮肉にも程があると神崎は思った。
麗の前の、濃緑色のテーブルクロスの上に、数カ所新しい染みが出来る。
グラスから落ちた水滴とは、別の滴が作った染みが。
神崎は、膝の上でハンカチを握りしめる麗の手に、そっと手を重ねた。
そう、諭すように、静かに言った。
いくら彼女のためとはいえ、自分にもそれなりの責任がある。とにかく向こうに戻らないことには話が始まらなかった。
いよいよ周囲の視線が本格的に痛い。
これじゃまるで縁を切ろうとして、客に泣かれているホストのようだ。
しかし、自分がどんな目で見られようと、いまこの場だけのことであって、それは大した問題ではない。
最大の問題は、麗当人があまりにも自分に依存してしまっていることだった。
普段は無邪気に振る舞ってはいるが、やはり刻々と迫る死への不安や恐怖がない訳はなかったのだ。
それを見ないように、考えないように、わざと無邪気に振る舞っていただけなのだ。それは正に、「いつまでも見つからない彼女」のことを考えないようにするために、局地に積極的に身を置く己と同じだった。
過保護でか弱い彼女の心では、すぐに折れてしまうし、依存してしまう。
分かり切っていることなのに、有頂天になって見落としていた、自分のバカさ加減がたまらなかった。
そんなことなら、毎日ベタベタして甘えさせる前に、強引にでも転院の話を進めて、死の恐怖から解放してやるべきだったのだ。
とにかく『自分はもうすぐ死ぬ』という彼女の思い自体を覆さないことには、彼女を置いて日本を出ることは自殺行為だ。
未定の話を前提として聞かせるのは避けたかったが、このまま彼女の気持ちが崩れてしまえば元も子もない。
転院の話がまとまらなかった場合、いざとなれば無理にでも向こうの病院に連れて行く。たとえ誘拐犯扱いされたとしても、彼女が死ぬよりマシだ。
麗の目は絶望に彩られていた。
恐らく、これが彼女の本心なのだろう。
誰にも見せなかった心の内を、その瞳は悲しげに物語っていた。
神崎は、すっかり涙でぐしゃぐしゃになった麗の顔を、ハンカチで拭いてやった。彼女は、おとなしく神崎のされるがままになっている。
普段から世話を焼かれ慣れている彼女は、誰かが髪をいじろうと顔を拭おうと、まな板の上の鯉のように、積極的に受け身な態度を取る。
きっと同じように何度も針を打ち込まれたり、電極をつけられたりしているのだろう。
そんな受け身な様を見るに付け、彼女がそんな風になってしまったことに、胸が締め付けられる思いがする。
一瞬、何を言われているのかわからず、麗は何度か目を瞬かせた。
神崎は席を立ち、彼女の脇に片膝をついた。
そして、彼女の手を取り、両手で握った。
微妙に腑に落ちないといった顔をしながら頷いた。
それでも今は神崎に任せるしかない、ということだけは十分分かっている。
言葉のおわりの方は悲鳴にも似て、神崎の胸をえぐった。
麗の顔が切なげに歪んだ。
そしてまた、大粒の涙をぽろぽろと零しはじめた。
全てを諦め、投げ出していた自分が救われるなど、夢にも思わなかったから。
ああ、と神崎は大きくうなづいた。
あの日あの場所で釣りをしようと思わなければ、麗とは出会えなかった。時間切れで、また次の転生まで待つしかなかっただろう。
しかし、間に合ったのだ。
死なせてなるものか。
百年以上も待ち続けた愛しい人を、ここで失うわけにはいかないのだ。
彼女の目が、全力で『助けて』と叫んでいた。
今まで一度も求めたことのない『救い』を、彼女は初めて心から求めていた。
神崎は、安心させたくて、一番いい笑顔を作って彼女に応えた。
大丈夫、あそこなら何もかも揃っている。
治せる筈だ……。きっと。
――そう、『ステュクスの流れ』に誓って。