【3・転院】最大の敵はパパ1
文字数 2,762文字
神崎有人は、いかつい衛星携帯電話をテーブルの上にゴトリと置いた。
――それは彼なりの作戦だった。一刻も早く彼女を救うための。
地方に出かけていた麗の父が、週末になってようやく東京に戻って来た。
ある程度の事情は塩野義夫人から連絡が入っていたため、麗の転院の件について、スムーズに会合のセッティングをすることが出来た。
心待ちにしていた時が、やっと訪れたのだ。
これで麗を救える。早く麗を安心させてやりたい、と神崎は思った。
週末の午後、病院の談話スペースには、神崎と麗の両親の三人がいた。
四十代半ば、中肉中背の塩野義氏は薬剤師ということもあり、個性的ではないが温厚で知的な人物に見えた。
その彼が警戒心を全開にして神崎を見ている。当然だ。
どこの馬の骨……と言われるほど身元がいい加減ではないものの、神崎の登場はあまりにも唐突過ぎる印象を塩野義氏、つまり麗の父上に与えてしまったのだから。
奥方から話だけは聞いているものの、不審者を見るような目で見るパパ上には、一から身の証を立てねばならなかった。
それが神崎にはひどくもどかしかった。
だいたい、自分の嫁を引き取るのに、どうして許可が必要なのか。
今生のことしか知らぬ両親にとっては、神崎こそが強奪者なのだが、長い目で見れば理があるのは神崎の方で……。
と、ひどくややこしい状況になっている。
と、神崎はいかにもな台詞を吐いてみせた。無論SPなど最初から連れていない。
普段は自分がSPをやっている側なのが可笑しかったが、実際「GBI社の副社長」として見世物にされる場合には、そんな自分にもSPが付くのだから愉快な話だ。
神崎は、上着の内ポケットから、役員名義の名刺と役員のIDカードを取り出して、ご機嫌ナナメなパパ上に手渡した。
パパ上は、ほぉ、と声を上げながら渡されたIDの裏表をまじまじと見ている。未だに目の前の青二才が大会社の重役だということが飲み込めないでいる様子だ。
世事に疎い母親ならともかく、一般社会人である父親は、神崎の会社がどれほどまでに巨大なのかということを漠然と理解しているために、余計に実感がわかないのだろう。
なぜならGBI社は、トヨタやアップル、ディズニーが束になってかかっても、一瞬で当たり負けするほどの超巨大企業だ。大きすぎれば体感出来ないのが普通の感覚だろう。
これらは、余程のことがなければ使わない、彼のもう一つの「不本意極まりない」肩書きを証明するものだった。
神崎自身としては、この肩書きの使用は非常に不愉快だった。しかし、一般人を手っ取り早く納得させるには、巨大多国籍企業の役員という肩書きは絶大な効果がある。
これがもし、ただの平の商社マンという肩書きだとしたら、両親の説得にあまりにも時間がかかり、最悪タイムアップで彼女を救えなくなってしまう。
本物の衛星携帯電話を目の当たりにして、パパ上は怯んだ。
本当は金さえ出せば誰でも所持出来るものだが、素人相手なら威嚇効果は十分だった。麗のパパ上、塩野義氏は、ここまで来てやっと事態を納得する気になったようだった。
礼儀正しく、落ち着いた雰囲気で語る神崎青年からは、確かに肩書きに相応しい振る舞いを感じることは出来る。
それこそ、どこかの王侯貴族だと言っても通用するような品格があった。
無論それは、神崎が意図的に、社長の弟を演じる時の顔を見せたに過ぎなかったのだが。
とにかく今は手段を選んでいる場合じゃない。
神崎の手を取り、そっとIDカードを返した。
そして手を握ったまま彼の目を真っ直ぐに見つめ、
第一関門は突破したように見えたので、次は悲劇の王子を演じる段取りだ。
神崎は、以前母親に語ったのと同じことを、今度は父親に語って聞かせた。
ひととおり説明をした後、父親が口を開いた。
真摯な神崎を前に、父親の心中には疑問や不安が沸き出していた。
ネットという得体の知れない世界が結ぶ縁というものは、理解出来ない人間にとっては奇異にしか映らない。
病院での日々、ご両親のこと、僕の仕事のこと、好きな動物や花、色、音楽、本、子供のころのこと、天気のこと、今日食べたもの……、
テキストで、電話で、他愛のない事から悩み事まで、長い時間、僕らはいろんなことを語り合いました……
我が国でも古の時代には、貴族が文を交わすことから交際を始め、そして婚姻に至るといった故事が伝えられています。
ある意味、文通での交際というのは、我が国の伝統と言えるかもしれません。ネットという特殊な世界を、すぐに理解しろとは言いませんが……。
でも僕は、心から彼女を愛し、そして救いたい、ただそれだけを願っているのです
パパ上は唸って腕組みをした。
微妙に腑に落ちないものを感じながら、目の前の見目麗しい、セレブの青年を信じようと試みていた。
時折、妻をチラチラと伺っているのは、家庭における力関係が故だろうか。
父親は苦渋の表情を浮かべた。
麗に本当に必要とされる高額な医療は、一般家庭の子女である彼女が望むべくもなかった。