【3・吟遊詩人】千年前のアーシェク
文字数 4,331文字
かつて彼がこの地を訪れた時には、『吟遊詩人』と呼ばれ、敬われていた。
だが今の彼は、ただの死の商人だ。
◆
――三月中旬 夕刻。
この国に到着して数日後、神崎は会社の代表として大統領府で開かれるお誕生パーティに招かれていた。
政府有力者の誕生パーティなのだが、神崎はその人物のことは全く知らなかった。しかし、国のトップ――『頭の沸いた』連中を相手に、自分はこれから営業をしなければならない立場だ。
顔見せも兼ねて、この盛大な茶番に渋々参加した。
大統領府は、かつての王家が使用していた古い王宮を改造したもので、この国で一番立派で豪奢な石造りの建物だった。
その中には、政権が変わった今でも、多くの調度品や装飾品がそのまま残されており、かつての王宮の栄華を思い起こさせる。
神崎は、このような歴史的な建造物が戦火を免れていることに、奇跡を感じずにはいられなかった。
会場内には、新大統領を始め、大臣連中や近隣部族の長老たち、近隣国の王族や大臣、更に今後大使館を置くと思しき大国の外交関係者――文官というよりは、明らかにエージェントと思しき白人連中などがひしめき合っていた。
日本の外交筋の連中も数名いた。
時折神崎に向けて強い侮蔑の視線を送ってくる不愉快極まりない連中だが、なるべく関わらないように隅に潜んでおこうと彼は思った。
恐らく、この戦争屋風情が、とでも連中は思っているのだろう。
どれもこれも腹に一物ありそうな連中ばかりで、とても、楽しくみんなでお誕生日を祝おう、という雰囲気ではなかった。
神崎は以前兄の怜央に、ニューヨークにある親会社のパーティに無理矢理連れて行かれたことがあった。それは現在に至るも最悪なパーティとして彼のトラウマになっている。
政界、財界、その他各業界の魑魅魍魎の集まるおぞましきもので、怜央は涼しい顔で怪物共に笑顔を振りまき、握手を交わしながら場内を回遊していた。少しでも目を掛けてもらおうと、兄だけでなく、弟の自分にも擦り寄ってくる奴が後を絶たず、神崎は身の毛もよだつ思いをしたものだ。
一体どういうつもりで、兄が自分を魍魎どもの中に放り込んだのか、神崎は正直想像したくもなかった。
パーティというものに、そんな忌々しい記憶しかなかった神崎は、極力宴席を避けて通ってきた。
宴には魑魅魍魎が寄り集まる。君子危うきに近寄らず、というわけだ。
◆
どうせ宴会が終わって基地に戻っても晩飯にありつけないだろう、と神崎は、めぼしい料理をかき集めて、そそくさと腹に詰め込んだ。
職業柄、食えるときに食っておけ、というのは鉄則ではあったが、おかげで東京に帰っても早食いのクセが治らず友人に苦言を呈されることも多かった。
神崎は、今宵は地元の料理が食べられるかもしれないとほのかに期待していたのだが、海外からの来賓も多かったので、極めて平凡なパーティ料理ばかりが並んでいたのには心底ガッカリした。
腹もふくれてひと息ついた神崎は、食休みとばかりに壁にもたれ、虚ろな目で来賓を眺めていた。ほとんど口もつけないワイングラスを手にしていたのは、手ぶらでは給仕に何度も声をかけられて鬱陶しいからだ。
本来大統領府には顔見せに来たはずだが、兄のように振る舞える自信が彼にはなかった。どうせあんな風に出来ないのなら、気疲れするだけソンだから、おとなしくしていよう、そう思っていた。
そのとき、ふと壁にかかった九弦の弦楽器が目に入った。
――それは、中央アジアの楽器、サズだった。
細く長いネックを持ち、胴は半分に割ったいちじくのような形をしている。
古くより、西アジアから中央アジアの人々の間で広く使われていた楽器で、吟遊詩人によって広められたと言われている。
この宴会場にあるサズは全体に美しい装飾が施してあり、まるで美術品のようだった。彼が近寄ってよく見ると、この壁にほとんど置物として飾られていたのだろう、長い間誰にも奏でられることなく、若干埃をかぶっている。
彼は懐かしさのあまり、壁に掛けられたままのサズに、つい手を伸ばしてしまった。
――そっと、花にでも触れるかの如く。
その時、彼は思わず、永く恋い焦がれた愛人にでも会ったかのような、愛しさと懐かしさの混じった、そんな顔をしていた。
それを一人の老人がじっと見ていた。
大臣の一人が声をかけてきた。がっちりとした体躯に民族衣装を纏い、日に焼け深い皺を刻んだ顔に髭をたくわえた、立派な身なりの老人だった。
突然声をかけられて、神崎はバツが悪そうに慌てて伸ばした手を引っ込めた。
胸の中を見透かされた気もしたが、少しだけ心が浮き立った。
微かによぎる不安は、それを奏でられる、という喜びの前にかき消えた。
すぐに気を取り直した彼は弦に挟まったピックを抜き、バラン……と弦を軽く弾いた。
弦の音に、近くにいた数人の客が振り返った。
神崎はそれには見向きもせず、左手で若干チューニングを合わせ、不安を払うように、息を深く吸い込んだ。
脇には今、空のホルスターが下がっている。
宴会場に入る前、受付に武器を預けていたのだ。演奏中動きづらいので上着を脱ぎたかったが、このような場所で無粋な物を見せることもなかろうと、彼は着たまま弾くことにした。
神崎は老大臣の手招きで椅子の前に立ち、周囲に一礼をして優雅に座った。
足を組み、サズの胴を太股の上に載せる。
かつて何千回も何万回もやった段取りを、流れるように。
遠い時代にキャラバンと旅をしながら、何度も奏でた、方々で謳った調べ。
それは千年以上も昔に弾いたきりだったが、体は覚えていた。
彼は九弦全てを自在に操り、複雑な拍子で緻密なモザイク画のようにメロディを奏で、川の流れの如く朗々と詩を謳う。
かつてこの王宮で謳われた、吟遊詩人たちの類い希なる技巧から紡ぎ出される、失われし珠玉の楽曲そのものだった。
それもそのはず。彼は本物の吟遊詩人だったのだから。
かつて吟遊詩人だった彼の手から紡ぎ出される調べに、場内が水を打ったように静かになった。
そして彼の透明感のある歌声は、宴会場の隅々まで響き渡り、来賓たちの耳を通して体に染み込んでいった。
それは彼の声が澄んでいたからなのか、人ならぬ者の声故か、謳う彼自身にも分からなかった。
老大臣が呟いた。
それは、砂漠の民の言葉で、吟遊詩人という意味だった。
地元の長老達の中には、涙を流している者もいた。
民族音楽に興味のなさそうなアメリカ人のエージェントや日本の役人たちでさえ、彼の紡ぎ出すペルシャ絨毯のように緻密な調べと、澄んだ歌声に真剣に聞き入っていた。
一曲謳い終えた神崎は、満足げな顔で立ち上がると、来賓に深々と礼をした。
同時に場内から拍手喝采が起こった。
白人たちは「ブラボー」と叫び、老人たちからは「アーシュクよ!」「アーシェクがおいでになった」と賞賛の声があがっていた。
その後、日本から来た外交官たちが地元の来賓たちから「日本では吟遊詩人を育成しているのか?」と、質問攻めにあっていた。
しかし、当のアーシェク本人は、
思いの外、来賓に演奏が「ウケ」てしまったせいで、この後困ったことにならなければいいが、と神崎はいささか心配になってきた。
実際、今まで空気扱いだった神崎青年は、いきなり地元の有力者や政府関係者の人気者になっており、さきほどのプロモーションの効果は絶大だったと分かる。
いつの間にか、彼のこの国における立ち位置が当人の預かり知らぬ所で、VIPに限りなく近い位置にまで持ち上げられていた事には、神崎自身、全く気づいていなかった。
それほどまでに、彼等の民族の間では、吟遊詩人=アーシェクという存在は絶大だった。神崎当人の認識では、それは「大昔の話」だとばかり思っていたようだが。
チヤホヤしてくる老人たちをいなしつつ、ネックをハンカチで拭いて、サズを壁に戻そうと席を立ったとき、さっきの老大臣が彼に声をかけてきた。
日焼けした顔が喜びに輝き、畏敬の念の籠もった眼差しを、真っ直ぐ神崎に向けている。
少し照れながら、それだけ答えた。
本当のことなど、言っても信じる者などいない。
確かに自分はかつて、この国で本当に『アーシェク』と呼ばれていたなんて。
話している二人の前に一人の男性が歩み寄り、神崎に声を掛けた。
中年、というよりも壮年といった方が相応しく活力に満ちている。
スーツを着てはいるが、確かにこの国の男性のようだ。
そういえば、さっき演壇で挨拶をしていた――。