第32話 異変

文字数 1,816文字

 ああ、いいなあ、いいなあ。
 不躾だと分かっていながら、僕はスウェールスさん達から目を離せなかった。やっぱり購買力のある人は違うよなあ。僕もいつか、あんな風になりたいなあ。

「……僕もいつか、伊万里をヨーロッパまで運びたいなあ」
 相当に物欲しそうな顔をしてたんだろうな。気づけばミカワが心配そうに見上げてきてたから、僕は腕にからみついた彼女の手をぽんぽんと叩いてやった。

「そのうち、な。今はとても無理だ」
 もちろん、僕だって一枚二枚なら買えないわけじゃないよ? だけどそんな余裕があるなら、少しでもミカワに使ってやらなくちゃ。

 なにせ遊女を長くとどめおくと、それだけ高い料金が発生する。
 ミカワは僕に負担をかけまいと大抵すぐに引き上げるけど、僕は帰したくなくて、高額の支払いを覚悟で引き止めることもあった。そうした時、彼女は申し訳なさそうに僕の部屋に泊まっていって、絵のモデルも務めて、翌朝自宅へ帰るんだ。

 そんな関係が半年近くにも及ぶ頃だったな、異変が起きたのは。
 ケースケはさらりと口にしたんだ。ミカワが身ごもったことをね。

 僕がその事実に絶句してるのに、間髪を入れず、奴は他の遊女を勧めてきた。
「代わりにカズサやシナノといった女の用意があるとのことです。いかがなさいますか?」

「いらないよ! 何言ってんだよケースケ!」
 僕は怒鳴りつけた。隠したけど、手がぶるぶる震えてるのに彼も気づいただろうな。
「ミカワは大丈夫なのか? 妊娠に間違いはないのか?」

 言いながら、ああやっぱりって思ったよ。来るべきものが来てしまったという感じだ。

 もちろん、逃げたい気持ちもあったよ。僕のせいじゃない。ミカワは遊女だ。僕以外の男も相手にしたかもしれない。他の誰かが犯人だろうって、まずはそう思った。
 
 だけどすぐに、ミカワの顔が、あの滑らかな肌が頭に浮かんできてさ。
 頭を抱える思いだった。
 そうだよ、たぶん僕の子だ。あれだけ頻繁に彼女を呼んだんだ。間違いない。
 日本人を責めたくなった。どうして僕に遊女買いを勧めたんだ、最初からこうなるって分かってただろうがってね。
 
 僕はしぼんだ気持ちで考えた。この国でもたぶん、命より金が大事。売られる女たちなんか、いつ死んでもいいとされてるんだろう。まして腹の中の赤ん坊は余計にそうだ。

 僕は海の奴隷だった。踏みにじられる、その痛みを知ってる。
 同時に思う。ケースケがわざわざ妊娠を知らせてきたってことは、たぶんこの僕に期待するところがあるんだ。

 それを裏切りたくなかった。一時はあんなに落ちぶれた僕だけど、心までは誰にも売り渡しちゃいない。僕の脳裏にちらつくのは、あの伊万里の十角皿だった。そうだ、あれほど気高く美しいものはない。美しいものは、何としても守らなくちゃいけない。

「……ちゃんと、金は出すよ」
 僕は両の拳をぎゅっと握った。
「何とか彼女を守り、子どもが無事に生まれてくるようにしてやってくれないか」

「良いのですか……?」
 ケースケは信じられないように目を見開いたけど、そうなるとこっちはきまり悪かった。
 何だかんだ言って、僕は悪いこともした。今さら立派そうなことを言ったって、かえって偽善者に見えるだけだろう。ケースケもきっと僕を蔑んでいる。

 だけど今はやっぱり、自分の心に正直でいようと思う。
「……僕の子が生まれるんだ。面倒を見るのは当たり前だろうが」

 ケースケが声を上げたのはそのときだ。
「ああ!」
 感極まったように歩み寄ってくると、ケースケは僕の両手を上下に揺さぶり、頭を下げた。
「ミカワはどんなにか喜びましょう。ありがとう。ありがとうございます!」

 ちょっと複雑だったよ。これまでオランダ人がいかに無責任な黙殺を繰り返してきたか、ケースケの反応に現れてたからな。

 日本人はすべて分かった上で、女の提供を続けてる。腹に宿った子を殺すことになっても、さらにそのせいで女が命を落とすことになっても、交易で得る実利の方が上だからだ。

 ケースケはたぶん、そのことにずっとずっと心を痛めてきたんだろう。こいつだって立場というものがあるから、現実を変えるのは難しいはずだ。それでもせめて、最悪の事態だけは回避しようと努めてきたんだろう。

 それが正しいかどうかはわからないけど、そんな彼に同意したいと思った。馬鹿げていても、そうしたかった。そう、僕もまた、自分にできる範囲のことをやってみるつもりだ。

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