第1話 オランダ人の仕事

文字数 3,421文字

 荒れ狂う真冬の北海は、さながら白い地獄だ。

 エイマイデンの港に、雪が容赦なく殴りかかる。僕はびゅうびゅうと吹き上げる風の中、二百余名の仲間とともに立ち尽くしてる。みんな足元は裸足だ。

 寒い、なんてもんじゃないよ。こんな天候なのに、掌帆長は甲板掃除を免除してはくれない。あいつは鬼だ。悪魔だ。水夫なんて殺してもいいぐらいに思ってる。

「始め!」
 掌帆長の号令とともに、わっと全員がネズミのように散って走り出した。
 殺気立ってるのは班ごとで速さを競争してるからだ。ビリの班には鞭打ちが待ってる。

 僕は同じ班の奴らと一緒に木桶を持ち、海水と砂をざっとばらまいた。
 あとは「聖書」って呼ばれてる四角い石で、ごしごし磨くんだ。こうやって上甲板の硬い板に弾力を持たせると、外洋で荒波に揉まれても船の倒壊を防げるんだそうだ。

 僕は血のにじむ手で、やけくそになって甲板磨きをしてる。

 こんなはずじゃなかった。僕の生まれた家は決して金持ちじゃなかったけど、食べるのに困るほどじゃなかった。こうして、読み書きができる程度には教育を施してくれた。ここまで落ちぶれるのは想定外だよ。

 僕が画家になりたいって言った時も、両親は歓迎まではしないものの、特に反対もしなかった。うちの父は売れない画家だけど、自分がそういう道を選んでいるもんだから、はっきり駄目とは言えなかったのかもしれない。

 とにかくこうなった以上、その両親とだって連絡も取れないよ。

 何でこの僕が、紙切れ一枚で売り飛ばされ、海の奴隷になったのか、だって?
 正直そこは言いたくないな。
 だけど僕が黙っていれば、同じような被害者がまた出るだろう。だから、そうだな、話しておくよ。いいかい? あくまで世のため人のために話すんだぜ?

 僕、絵が大好きなんだ。
 見るのも描くのも、たまらなく好きだ。だけど父にはよく反発しててさ、あいつから影響を受けたとは死んでも言いたくなかったんだよね。いつも父とは違うって思ってた。もっと有名な画家になって、がっつり稼いでやるつもりだった。
 まわりにもそういう若者がいっぱいいたよ。みんな絵筆を握りしめ、風俗画やら風景画やら、金になる当てもないのにどんどん描きまくってた。

 絵画の時代だ。

 金持ちはまず絵画に投資する。自分の屋敷に絵画を飾りたがる。それこそ他のどんな芸術よりも、オランダ人は絵画を愛してる。
 レンブラントにロイスダール。人気画家の華やかな暮らしぶりを見聞きしては、みんながそこにあこがれるもんだった。誰だって好きな絵を描いて、生きていきたいに決まってるよな。それが金になるなら、なおさらだ。

 現実には、好きなことで食っていける奴なんてそうそういるもんじゃない。ほとんどの人は好きでもない仕事に就いて、世の中の要請にこたえて、文句も言わず、ひたすら我慢の日々を送る。それだって、まともな仕事ならそう悪いもんじゃないさ。画家になる夢を果たしたって、たちまち食い詰めちまう奴も多いだろ?

 でもさ。
 この僕ほど人生が狂わされた奴も、また珍しいんじゃないだろうか。

 アムステルダムは恐ろしい町だ。
 今思えば、最初から仕組みができてたんだよな。奴らは街角に立って、手ぐすね引いて獲物を待ってる。田舎から出てきた「お上りさん」らしき若者を見つけると、すかさず声を掛けて、決まった宿に案内して、流行の服にうまい料理に商売女とぽんぽん与えるんだ。僕の場合、良い画商を紹介してやるって、最高においしい話もくっついてたよ。

 僕も甘かった。わけがわからないまま、これが都会の生活なんだって思い込んで、ヤクザたちの言いなりになっちゃったんだ。女たちはちやほやしてくれるし、僕はモテまくりのかっこいい男になったつもりで、すっかり鼻の下を伸ばしてた。

 田舎でどんなに慎ましい暮らしをしてたって、遊びに馴染むのはあっという間さ。で、自分が借金まみれになってることに気づいた時にはもう遅いんだ。

「なあウィレム、今日が返済日だって知ってたよな?」
 不気味なほど優しい声を発して、おじさんは僕の髪をつかみ、小刀をかざしたよ。
「これまでのよしみだ。小指で許してやる」

 僕はがつんと顔を机に叩きつけられた。必死にじたばたしたけど、ものすごい力で押さえつけられてほとんど身動きが取れなかった。

 嫌だ嫌だ、僕の小指、切らないで!
 鼻血を出しながら、僕はピクピクと体を動かしてたよ。

 相手にも隙があったのかもしれない。次の瞬間、僕は敵の手を逃れて走り出すことができた。もう嫌だ、二度とこんな恐ろしい町に近づくもんかって、僕は振り切るように思ったよ。
 もちろんそれは一瞬のことだ。僕はチンピラの一人に足を引っかけられて床の上に転がされ、あとはひたすら、殴る蹴るの暴行を受けたよ。
 そして意識がもうろうとする中、羽ペンはしっかり握らされて、手形に署名をさせられたんだ。

 その後、港近くの倉庫にぶち込まれた。
 そこには僕と同じような奴らがいっぱいいてさ。事情を聞いたら、みんな似たり寄ったりだよ。オランダでは、命知らずの船乗りはこうやって誕生するんだな。

 この世の中、人間を金で売り買いする方法なんていくらでもあるんだってさ。善良そうな堅気の人間も、実は裏社会とつながってたりする。ほんと、他人を簡単に信用した僕は馬鹿だ。

 連合東インド会社VOCは、目下オランダに未曾有の富をもたらしてる。
 一方でこの会社、航海に必要な人員を確保するためにかなり無茶をしてる。僕もそんなわけで、目つきの悪いごろつきと一緒につながれちゃってさ。今もデルフトの町にいる両親がこれを知ったら、どんなに嘆き悲しむことだろう。

  最初のうちは僕もまだ事態を甘く見てたけど、だんだん思い知らされたよ。
 いったんここへ入ったら、逃げようったってそうはいかない。鎖でつながれ、鞭の音に怯え、もう二度と立ち上がれないような土下座の根性を叩き込まれるんだ。
 そして、この先は植民地行きの運命が待ち構えてるらしい。

 あの手形だってさ、字の書けない奴は爪印でもいいってぐらいだから実にいい加減なもんだけど、あれを売買する専用の市場はちゃんとあるんだって。

 何しろ債権は、本人が生きているうちしか有効じゃない。しかも水夫なんて、いつ死ぬか分かったもんじゃない。
 価値が大きく変動するから、先物取引で売買する。ものすごく高利回り。
 立派な商業銀行の、フカフカの敷物が敷かれた部屋で、お上品な紳士たちが机を囲んでる。
 それが世界最先端の、オランダの金融業界だってさ。

 ふざけんな、ちきしょう!
 
 あのとき小指を切られるのを怖がった僕だけど、極寒の中で働いてると指なんか凍傷で簡単にちぎれちゃうらしい。先輩たちの中には指の一本や二本失った手合いがたくさんいるし、航海中に病気や怪我で切られることもあるから、長年水夫をした男にまともな体をしたやつはほとんどいない。
 ああ、僕にもきっと同じ運命がふりかかるんだろうな。

 そう。
 今からずっと昔のこと。新教徒たちは宗教弾圧を恐れ、着の身着のままで逃げてきたそうだ。
 着いたのが、資源の乏しいこの北方の低地。しかもこの小さな国が独立を勝ち取るまで、八十年戦争という試練をくぐり抜けねばならなかった。

 そういう、オランダが本当に貧しかった時代を、僕自身はまったく知らない。年寄から昔話として聞いたことがあるだけだ。

 そんな暗い時代を、オランダはもう忘れたのかもしれない。今やこの国は押しも押されぬ貿易大国。空前の繁栄を謳歌しているところだ。
 大船団が続々と港を発着する。
 遠い国からやってきた香辛料の木箱が舟に乗せられ、運河をさかのぼる。その傍らで、レンガ造りの銀行の扉が重々しく開き、証券取引所が立会を開始する。

 だけど、世界中の富がこの国に集まってるというのに、妙なんだよな。今も街角では物乞いがうろついてるし、僕の知る人々はみんな苦しい生活を強いられている。
 国が繁栄しても、その恩恵は一握りの人々にしか与えられないんだろうか。景気の良い話だけはいくらでも転がってるから、貧乏人は余計に惨めになってるような気がする。

 しかもこの僕ときたら、その中でも最底辺にまで落ちてしまった。今になってようやく理由が分かったよ。海運で成り立つこの国は、水夫の数が圧倒的に足りないんだ。だからあんな荒っぽいやり方で、若者を囲い込むんだ。

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