第35話 肩代わり
文字数 1,604文字
「……救いたい、か」
僕の決意を見て取ったんだろう。スウェールスさんは悲しそうに呟いてたよ。
「君が救いたいのは彼女ではなく、君自身であるように見えるがね」
そうだよな。これは僕自身のための選択に違いない。
でも船乗りは、どうせ生きるか死ぬかの毎日じゃないか。だったら何より自分の気持ちに忠実であるべきなんじゃないか。今にも死に絶えそうなこの心こそ、救うべきなんだ。
スウェールスさんは長い溜息を漏らし、やっぱりパイプは吸わずに机に置いた。
「日本から連れ出すなんて、逆に可哀想なんじゃないかな。だいたい、日本人の出国はどんな例外も許されんそうだが」
その通り。だけど僕、そこは突破するつもりだったよ。
「奉行所に付け届けをするなり、何らかの抜け道はあるかと思います」
「それこそ金のかかる話じゃないか。君にできるのか」
言葉にならないうめき声とともに、スウェールスさんは額に手を当てた。
「だが、どうしてもと言うなら仕方がない。君の友達のあの通詞 。どのような対応が考えられるのか、彼に相談してみたらどうだ? 私は何も言うまい」
カピタン部屋を後にした時、僕は目が覚めた気分で天井を見上げた。
スウェールスさんはたぶん、精一杯の譲歩をしてくれたんだ。やっぱり感謝しよう。
「ケースケ! ケースケ、相談がある」
僕は勢い込んで話をしたよ。
だけど、意外にもケースケの表情は冴えなかった。
「……国法は絶対です。いかなる日本人も出国は許されません。奉行所はこの五十年、一切の例外を認めておりません」
ケースケは決めつけてる。役人たちは袖の下を受け取ったら死罪だから、まず応じてくれないってさ。
こいつ、やっぱり不親切だな。何も分かってくれてない。
僕がそう思って小さく舌打ちすると、ケースケは思いついたように顔を上げ、逆に提案してきたよ。
「ブルクハウゼン殿。あなたは十分に、三河に良くして下さっています。来年の夏、また日本にいらして下さい。そのときにまた、彼女と子供に会ったらいいじゃないですか」
「それって、いわゆる通い婚ってやつだろ?」
僕は吐き捨てるように言った。知ってるよ。インドのあちこちで見られる風習だ。
「生活費だけ渡してごまかせって? 違うだろ、僕が言いたいのはそういうことじゃない」
だいたい、来年にまた来られる保証なんてどこにもないじゃないか。会社はそこまで個人の事情を考慮してくれないんだぞ。
ところがそこで、ケースケはさらに厳しい現実を突きつけてきた。
「もちろん彼女には仕事がありますから、会えるかどうかは他の客との競合にもよりますが」
胸を突かれたよ。
ミカワは遊女だ。出産を経た後でも、他の男の相手をさせられるんだ。
ケースケは少し後ろめたそうな視線を向けてきた。何となく、僕の言いたいことを察してくれたようだ。
「このような稼業ですから、致し方ないんです。どうしても三河に足抜けをさせたいのなら、方法がないこともありません。ですが、その……」
「ちゃんと言えよ。要するに、彼女の負った借金の肩代わりだろ?」
僕はムカムカしながら言い返した。こういうのは奴隷と同じ仕組みだ。すぐに分かる。
「いくらでもいい。出すよ。具体的な金額を教えてくれ」
だけど数日後、ケースケが確かめてきてくれたその額を聞いて、僕はまた驚いた。
ミカワの身代金は百ギルダーにも達してたんだ。もちろん先日の伊万里はもっと高かったんだから、そんなに驚くことじゃないのかもしれない。だけど百ギルダーって、それなりの人気画家に肖像画を依頼できる金額だよ?
「ケースケ。それは、若い女が抱える借金の額として普通なのか?」
僕は食ってかかった。もちろん水夫はもっと高くて、多くは百八十ギルダー前後だけど、水夫はインドまで無事に往復すれば一度でほぼ完済できる。もちろん帰国後に放蕩暮らしをしてまた借金を作っちゃうらしいけど、それはまた別の話だ。
僕の決意を見て取ったんだろう。スウェールスさんは悲しそうに呟いてたよ。
「君が救いたいのは彼女ではなく、君自身であるように見えるがね」
そうだよな。これは僕自身のための選択に違いない。
でも船乗りは、どうせ生きるか死ぬかの毎日じゃないか。だったら何より自分の気持ちに忠実であるべきなんじゃないか。今にも死に絶えそうなこの心こそ、救うべきなんだ。
スウェールスさんは長い溜息を漏らし、やっぱりパイプは吸わずに机に置いた。
「日本から連れ出すなんて、逆に可哀想なんじゃないかな。だいたい、日本人の出国はどんな例外も許されんそうだが」
その通り。だけど僕、そこは突破するつもりだったよ。
「奉行所に付け届けをするなり、何らかの抜け道はあるかと思います」
「それこそ金のかかる話じゃないか。君にできるのか」
言葉にならないうめき声とともに、スウェールスさんは額に手を当てた。
「だが、どうしてもと言うなら仕方がない。君の友達のあの
カピタン部屋を後にした時、僕は目が覚めた気分で天井を見上げた。
スウェールスさんはたぶん、精一杯の譲歩をしてくれたんだ。やっぱり感謝しよう。
「ケースケ! ケースケ、相談がある」
僕は勢い込んで話をしたよ。
だけど、意外にもケースケの表情は冴えなかった。
「……国法は絶対です。いかなる日本人も出国は許されません。奉行所はこの五十年、一切の例外を認めておりません」
ケースケは決めつけてる。役人たちは袖の下を受け取ったら死罪だから、まず応じてくれないってさ。
こいつ、やっぱり不親切だな。何も分かってくれてない。
僕がそう思って小さく舌打ちすると、ケースケは思いついたように顔を上げ、逆に提案してきたよ。
「ブルクハウゼン殿。あなたは十分に、三河に良くして下さっています。来年の夏、また日本にいらして下さい。そのときにまた、彼女と子供に会ったらいいじゃないですか」
「それって、いわゆる通い婚ってやつだろ?」
僕は吐き捨てるように言った。知ってるよ。インドのあちこちで見られる風習だ。
「生活費だけ渡してごまかせって? 違うだろ、僕が言いたいのはそういうことじゃない」
だいたい、来年にまた来られる保証なんてどこにもないじゃないか。会社はそこまで個人の事情を考慮してくれないんだぞ。
ところがそこで、ケースケはさらに厳しい現実を突きつけてきた。
「もちろん彼女には仕事がありますから、会えるかどうかは他の客との競合にもよりますが」
胸を突かれたよ。
ミカワは遊女だ。出産を経た後でも、他の男の相手をさせられるんだ。
ケースケは少し後ろめたそうな視線を向けてきた。何となく、僕の言いたいことを察してくれたようだ。
「このような稼業ですから、致し方ないんです。どうしても三河に足抜けをさせたいのなら、方法がないこともありません。ですが、その……」
「ちゃんと言えよ。要するに、彼女の負った借金の肩代わりだろ?」
僕はムカムカしながら言い返した。こういうのは奴隷と同じ仕組みだ。すぐに分かる。
「いくらでもいい。出すよ。具体的な金額を教えてくれ」
だけど数日後、ケースケが確かめてきてくれたその額を聞いて、僕はまた驚いた。
ミカワの身代金は百ギルダーにも達してたんだ。もちろん先日の伊万里はもっと高かったんだから、そんなに驚くことじゃないのかもしれない。だけど百ギルダーって、それなりの人気画家に肖像画を依頼できる金額だよ?
「ケースケ。それは、若い女が抱える借金の額として普通なのか?」
僕は食ってかかった。もちろん水夫はもっと高くて、多くは百八十ギルダー前後だけど、水夫はインドまで無事に往復すれば一度でほぼ完済できる。もちろん帰国後に放蕩暮らしをしてまた借金を作っちゃうらしいけど、それはまた別の話だ。