第16話 「インド」の美
文字数 2,396文字
だけど一人で落ち込んでる人間を、船乗りたちは放っておいてくれない。僕のところにも酔っ払った親父が酒瓶を片手に寄ってきた。
で、あれこれ説教してくるんだよ。
「おい、若いの。この程度で何だ。ツィエン(鄭)は、こんなものではなかったぞ」
うるさい、と思って僕は背を向けた。こういうお節介な人って嫌いだよ。だいたい服装もだらしないしさ、そのひしゃげた、下卑た笑い声を聞くと何だか胸くそが悪くなる。
だけどその親父はしつこく僕につきまとって、何が何でも言い聞かせるつもりのようだった。
「あの頃はなあ、ここらの海ではとにかく海賊ツィエンが恐ろしかったもんだ。そりゃもう、格段にな」
ツィエンっていうのは漢民族系の一部族でね、そいつらの国はとっくに清国の手で滅ぼされてる。だから僕、親父にはっきり言ってやったよ。
「僕には関係ない話だ。もうツィエンなんていないんだからな」
「まあ、いいから聞け」
親父は構わず話し続ける。
「やけっぱちでも何でも、死に物狂いで飛び込めばうまくいくこともあるって話さ。次に恐ろしい海賊に出会ったら、この話を思い出せばいい」
この人はたぶん、過去の戦功を自慢したくてしょうがないのに、誰にも聞いてもらえなかったんだろう。一人でいる僕は、格好の餌食だったんだ。
ただ、ツィエンについては確かに他の年長者の間でも語り草となってた。当時は丸に「鄭」の文字を書いた令旗を見た途端、誰もが恐怖で震え上がったらしい。
「……それでな、皆が悲鳴を上げて逃げまどう中、わしは臆することなく、真っ先に敵船へ乗り込んだのだ」
何度も演説したことがあるんだろう。親父は唾を飛ばしてもうしゃべる、しゃべる。
「で、立ち上がって驚いたの何の。目の前にツィエンの司令官がおってな、ああもう終わりだと思った。だがかえって覚悟ができた。わしは敵の方へ向かってまっすぐに短剣を投げつけて、そいつの目を潰してやったのだ。こうやって、ぐさっとな」
親父はうれしそうに身振りで示す。どうせ作り話だろうと思って聞いてたけど、剣を突き出すその俊敏な動作からすると、あながち全部が嘘ってわけじゃないのかもしれない。
「……そいつ、死んだの?」
聞くと親父はわが意を得たりとばかり、得意そうにのけぞって笑ったよ。
「そりゃ、あれだけの怪我だ。死んだに決まっとるわ」
ふうん、と僕は少しだけ背筋を伸ばした。与太話に付き合わされただけなのに、ちょっとだけ元気を分けてもらえたような感じがした。
そうやって熱血漢に囲まれてたのが良かったのかな。ちょっとずつだけど、僕は笑えるようになってきた。大声で人とやりとりするようにもなってきた。
ここでようやく船乗りらしくなってきたってわけだ。
停泊中、仲間たちに引っ張られて、あちこちの港町に繰り出すようにもなってきた。
日頃は禁欲的な船乗りたちも、一旦陸に上がると人が変わったように馬鹿騒ぎをするものだった。酒と女で、苦労を忘れる。それがお約束なんだって僕にも分かってきたよ。
インドにも遊び場はいっぱいあって、現地の女がうたかたの愛を売ってる。東洋人の顔立ちはあっさりしてて、僕らの人魚の絵とは違うけど、みんな肌はなめらかだよ。
故国に妻や恋人を置いてきた奴らは、遊ぶだけ遊んだら急に後ろめたくなるみたいだ。船に戻ってきた途端、慌てて愛の言葉を彼女たちに送ろうとする。
だけど水夫には読み書きのできない者が多いから、僕は手紙の代筆と代読を請け負った。「いつだって君のことを想ってる」とか、嘘ばっかり並べ立てるんだけど、これがすごく重宝がられてね、なかなかいい小遣い稼ぎになったよ。
それにしても、なぜかきれいな女ほど、入れ墨のある船乗りと寝たがるんだよね。これはもう、どこの国に行っても同じみたいだ。
だから僕も彫り物を頼むことにした。これは代筆業と同じく、船での小遣い稼ぎの手段でね、僕、そいつの前で思い切り二の腕をまくりあげ、見本の絵を指差したよ。
「これを頼む」
絵柄によって値段は異なるんだけど、なるべくお手頃で見映えがするのがいいよね。で、一番性欲を刺激しそうなのといったら、やっぱりドクロと心臓。そう思わない?
そいつはやり甲斐があると思ったのか、ニヤリと笑ってさ。見るからに恐ろしい、太い針を持ち上げるんだ。実際に見たら、僕はもうぞっとしたよ。
「やっぱりやめる!」
僕はその場から逃げ出そうとしたんだけど、仲間が面白がって両側から取り押さえてきてさ、結局やるしかなくなったんだ。
ぶすぶすと刺されたときの、あの痛み。
もう失神しかけたよ。
だけど鞭打ちに比べればまだ我慢できたからさ、これで女がすり寄ってくるなら安いもんだって自分に言い聞かせて、とにかく耐えに耐えたんだ。
それから、僕は簡単な水彩画をかき始めた。
ほんと、オランダ人の絵画狂いって相当なもんだよね。植民地でも安物の絵の具や筆なら買えるようになってる。バタヴィアの目抜き通りだけでも、画材屋が数件あるよ。
絵には、弱った心を奮い立たせる力がある。画家の道を諦めた僕だけど、やっぱり絵を見れば何かぐっとくる。時には涙が出そうになる。
気づけば、狂ったように木炭を握りしめてたよ。
いや、何よりこの極彩色の風景があまりに見事で、もう描かずにはいられなくなったって感じかな。
あり得ないと思うほどの大型の昆虫や、原色の大輪の花、原住民の衣装。
壺を頭に乗せ、流し目で歩く女たち。
それから彼らが日常で使う食器が、特に印象に残った。深さのある鉢が多くて、なぜかどれも内側には魚、側面には蛇のような化け物が描かれてたよ。
いつかインドの海を離れても、これら一つ一つを思い出せるよう、記憶の底に刻みつけておこうと思った。確かにここには貧困と病気と暴力とがあふれかえってるけど、それでもその土地ならではの美しさってもんがあるんだ。
で、あれこれ説教してくるんだよ。
「おい、若いの。この程度で何だ。ツィエン(鄭)は、こんなものではなかったぞ」
うるさい、と思って僕は背を向けた。こういうお節介な人って嫌いだよ。だいたい服装もだらしないしさ、そのひしゃげた、下卑た笑い声を聞くと何だか胸くそが悪くなる。
だけどその親父はしつこく僕につきまとって、何が何でも言い聞かせるつもりのようだった。
「あの頃はなあ、ここらの海ではとにかく海賊ツィエンが恐ろしかったもんだ。そりゃもう、格段にな」
ツィエンっていうのは漢民族系の一部族でね、そいつらの国はとっくに清国の手で滅ぼされてる。だから僕、親父にはっきり言ってやったよ。
「僕には関係ない話だ。もうツィエンなんていないんだからな」
「まあ、いいから聞け」
親父は構わず話し続ける。
「やけっぱちでも何でも、死に物狂いで飛び込めばうまくいくこともあるって話さ。次に恐ろしい海賊に出会ったら、この話を思い出せばいい」
この人はたぶん、過去の戦功を自慢したくてしょうがないのに、誰にも聞いてもらえなかったんだろう。一人でいる僕は、格好の餌食だったんだ。
ただ、ツィエンについては確かに他の年長者の間でも語り草となってた。当時は丸に「鄭」の文字を書いた令旗を見た途端、誰もが恐怖で震え上がったらしい。
「……それでな、皆が悲鳴を上げて逃げまどう中、わしは臆することなく、真っ先に敵船へ乗り込んだのだ」
何度も演説したことがあるんだろう。親父は唾を飛ばしてもうしゃべる、しゃべる。
「で、立ち上がって驚いたの何の。目の前にツィエンの司令官がおってな、ああもう終わりだと思った。だがかえって覚悟ができた。わしは敵の方へ向かってまっすぐに短剣を投げつけて、そいつの目を潰してやったのだ。こうやって、ぐさっとな」
親父はうれしそうに身振りで示す。どうせ作り話だろうと思って聞いてたけど、剣を突き出すその俊敏な動作からすると、あながち全部が嘘ってわけじゃないのかもしれない。
「……そいつ、死んだの?」
聞くと親父はわが意を得たりとばかり、得意そうにのけぞって笑ったよ。
「そりゃ、あれだけの怪我だ。死んだに決まっとるわ」
ふうん、と僕は少しだけ背筋を伸ばした。与太話に付き合わされただけなのに、ちょっとだけ元気を分けてもらえたような感じがした。
そうやって熱血漢に囲まれてたのが良かったのかな。ちょっとずつだけど、僕は笑えるようになってきた。大声で人とやりとりするようにもなってきた。
ここでようやく船乗りらしくなってきたってわけだ。
停泊中、仲間たちに引っ張られて、あちこちの港町に繰り出すようにもなってきた。
日頃は禁欲的な船乗りたちも、一旦陸に上がると人が変わったように馬鹿騒ぎをするものだった。酒と女で、苦労を忘れる。それがお約束なんだって僕にも分かってきたよ。
インドにも遊び場はいっぱいあって、現地の女がうたかたの愛を売ってる。東洋人の顔立ちはあっさりしてて、僕らの人魚の絵とは違うけど、みんな肌はなめらかだよ。
故国に妻や恋人を置いてきた奴らは、遊ぶだけ遊んだら急に後ろめたくなるみたいだ。船に戻ってきた途端、慌てて愛の言葉を彼女たちに送ろうとする。
だけど水夫には読み書きのできない者が多いから、僕は手紙の代筆と代読を請け負った。「いつだって君のことを想ってる」とか、嘘ばっかり並べ立てるんだけど、これがすごく重宝がられてね、なかなかいい小遣い稼ぎになったよ。
それにしても、なぜかきれいな女ほど、入れ墨のある船乗りと寝たがるんだよね。これはもう、どこの国に行っても同じみたいだ。
だから僕も彫り物を頼むことにした。これは代筆業と同じく、船での小遣い稼ぎの手段でね、僕、そいつの前で思い切り二の腕をまくりあげ、見本の絵を指差したよ。
「これを頼む」
絵柄によって値段は異なるんだけど、なるべくお手頃で見映えがするのがいいよね。で、一番性欲を刺激しそうなのといったら、やっぱりドクロと心臓。そう思わない?
そいつはやり甲斐があると思ったのか、ニヤリと笑ってさ。見るからに恐ろしい、太い針を持ち上げるんだ。実際に見たら、僕はもうぞっとしたよ。
「やっぱりやめる!」
僕はその場から逃げ出そうとしたんだけど、仲間が面白がって両側から取り押さえてきてさ、結局やるしかなくなったんだ。
ぶすぶすと刺されたときの、あの痛み。
もう失神しかけたよ。
だけど鞭打ちに比べればまだ我慢できたからさ、これで女がすり寄ってくるなら安いもんだって自分に言い聞かせて、とにかく耐えに耐えたんだ。
それから、僕は簡単な水彩画をかき始めた。
ほんと、オランダ人の絵画狂いって相当なもんだよね。植民地でも安物の絵の具や筆なら買えるようになってる。バタヴィアの目抜き通りだけでも、画材屋が数件あるよ。
絵には、弱った心を奮い立たせる力がある。画家の道を諦めた僕だけど、やっぱり絵を見れば何かぐっとくる。時には涙が出そうになる。
気づけば、狂ったように木炭を握りしめてたよ。
いや、何よりこの極彩色の風景があまりに見事で、もう描かずにはいられなくなったって感じかな。
あり得ないと思うほどの大型の昆虫や、原色の大輪の花、原住民の衣装。
壺を頭に乗せ、流し目で歩く女たち。
それから彼らが日常で使う食器が、特に印象に残った。深さのある鉢が多くて、なぜかどれも内側には魚、側面には蛇のような化け物が描かれてたよ。
いつかインドの海を離れても、これら一つ一つを思い出せるよう、記憶の底に刻みつけておこうと思った。確かにここには貧困と病気と暴力とがあふれかえってるけど、それでもその土地ならではの美しさってもんがあるんだ。