第12話 壊血病

文字数 1,908文字

 西アフリカのエルミナ港で水や食料を補給した後は、僕らもようやくまともな食事にありついた。寄港地の有難みってやつを、身に染みて感じたよ。

 でも赤道を超えてようやく暑さが落ち着いてきた頃のこと、船にはだんだん体調不良の者が出始めた。最初は倦怠感に襲われ、やがて下半身に血豆ができたり、古傷のある人はそれが開いたりするようだ。
 僕は嫌な予感がした。正体の分からない不気味なものが、ちょっとずつ迫ってくる感じだ。

 症状の強い者からちょっとずつ隔離病室に運ばれて行く。そして行ったら最後、一人も戻って来なかった。
 誰もがあそこにだけは行きたくないって思ってたはずだ。時おり病室の近くを通りかかると、発狂した奴らの声が聞こえる。医者を見かけても、病人たちの容体を聞く勇気はなくて、みんな目を背けてたよ。

 だから同じ班のヤンが足の痛みを訴え出した時、皆がはっとして口をつぐんだし、僕もまさかと思いつつ、底冷えのする思いがした。一番仲が良かったヤンには、倒れて欲しくなかったんだ。

「……この程度、大したことないよ。みんな大げさだな」
 ヤンはひきつった笑いを見せてそう言った。本人はすぐに治るつもりなんだろうけど、実際には起き上がれないし、顔色は悪いし、目も落ち窪んでる。息が臭いと思ったら、歯茎から出血してるじゃないか。

 やがて医療班が、担架を持ってやってきた。
「おい、そいつ、隔離病室へ運ぶぞ。手伝え」

 ヤンはびくっと体を震わせ、隣にいる僕にしがみついてきた。
「嫌だ。オレは元気だ。もう一晩寝たら治るよ!」
 ぶるぶると首を振ってそう言い張るんだけど、もちろん医療班はそんなことで許してくれない。
 ヤンも無理やり担架に乗せられたら、もはや抵抗する気をなくしたようだった。ただ心細そうに、僕の方へ手を伸ばしてきたよ。

 僕はぎゅっと握り返し、あえて明るく言ってやった。
「向こうに行った方が、栄養のあるスープをもらえるんだって。すぐに元気になって戻ってくればいい。お前の分の酒は、ちゃんと取っといてやるからさ」
 
 だけどその後、僕の耳に入ってくる話に希望の持てるものはなかった。
 
 壊血病患者って、発症から一月ほどでひどい苦しみ方をしながら死んでいくんだって。喜望峰への到達までに、三百人の乗組員のうち二十人から三十人は確実に減るんだって。
 
 遺体となった人間を帆布でくるみ、海中へ「埋葬」するのも僕たち水夫の仕事だ。
 最初に顔見知りの奴が死んだ時には、僕、泣きながらそれをやったよ。だけど何度もやってるうちに感覚が麻痺してきて、いちいち悲しんでる余裕もなくなってきた。

 何でだろう。いい奴から死んでいくんだよな。遠慮して食べ物の分捕りなんかしないような奴が、最初の犠牲者となっていく。

 代わりに生き残るのは、他人を踏みにじることで自分を守れる奴らだ。常に血走った目でお互いを見定め、次の犠牲者を誰にするのか決めようとしている。
 だから自分が死を免れたことにほっとできるのは一瞬だけだ。僕もこれからやってくる、さらに厳しい地獄を覚悟しなければならなかった。

 そんな状況だから、ヤンが息を引き取った時、僕は泣かなかったよ。
 死んだ水夫は、ようやく地獄の苦しみから解放されるんだ。もう鞭打ちに怯えることも、腐った水や蛆虫を口に入れることもない。ヤンにはよく頑張ったな、お疲れさんって言ってやるべきじゃないか?
 
 ところで海の男たちの慣習なんだけど、死んだ者の所持品は船内で売り払われ、その代金は家族が受け取ることになってる。

 で、ヤンも今わの際に、僕を呼んで遺言を残した。僕とヤンとは同じ班で、訓練の時からずっと一緒だったんだけど、そのとき初めて知ったことがある。
 何と彼は結婚してて、田舎に残してきた奥さんは妊娠中だったらしいんだ。
「……生まれてくる子供が心配だ。遺品を売って、彼女に送金してくれないか」

 僕は少しでもヤンを安心させてやりたくてさ、両手で彼の手を握りしめ、必ずそうするって約束したよ。

 もちろん彼の遺品には、金目の物なんて一つもなかった。その辺は本人も分かってたんじゃないかと思うけど、それでもいくらかは生活費の足しになると思ったんだろう。

 だから僕、少しでも高く買い取ってくれって、いろんな人に頭を下げて回ったよ。気性の荒い水夫たちもこんな時はすごく協力的でね、みんな気持ちよく金を出してくれた。

 いよいよケープの町に着いた時、僕はすぐに上陸して送金の手続きをした。
 役所で書類を整えてる時、何だか切なかったよ。ヤンが船乗りになって、家族の生活費を稼いでくるって言い出した時、奥さんはどんな気持ちで送り出したんだろうな。

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