第5話 嵐

文字数 1,523文字

 ちきしょう、空は真っ暗! 向こうから山岳のような大波が襲ってくる!

 豪雨の中、僕らは全力で走る。
 もしや海の怪物って、あの波のことだったんじゃないか?

「縮帆!」
 掌帆長が叫んでる。おびえた犬みたいな顔しやがってよ。あいつ、少々の嵐など何とも思わないとか何とか豪語してたくせに、いざとなったらあの程度だ。
 
 でも、あれ? 
 駄目だ、足が滑って登れない! 
 滝のような海水が頭上から降り注ぎ、体は今にも風に引きちぎられそうだ。しかもどこかから外れた縄が、不安定な体勢の僕の顔を、容赦なくパシンパシンと殴ってくる。

 やっぱり怖いよ。ちきしょう、ちきしょうっ。
 絶対にここから離れるもんか。

 と思って静索の太い縄にしがみついてたら、ヤンに下から尻を叩かれた。
「ウィレム、早く登れ!」
 
 そうだった。早く、早く!
 こうなったらもうやけくそだ。あぶみ縄を乗り越え、帆桁(ヤード)にかじりつき、巻いてあった(ガスケット)をほどく。ああもう、同じ班の奴らとは一蓮托生、一緒に地獄を覗く仲間だな。

「いくか?」
 雨粒に殴られながら叫ぶと、ヤンも必死の形相を返してきた。
「おう!」
「せ〜の!」
 二人掛かりでやっと帆を畳んだ。よし、押さえたまま、早く縄で固定するぞ!

 だけどその時、ああ、と二人同時に声を上げた。
 船が急降下していく。
 こうなったら作業を放り出して、僕もヤンも帆桁にかじりつくしかなかった。荒れた海面がみるみる近づいてくる。
 全身が硬直してる。この帆桁から手を離したら終わりだ!

 やがてどん、という衝撃とともに、僕たちは帆桁に腹を押し付けられ、危うくその場から放り出されそうになる。ほっとする間もなく、今度はふわりと持ち上げられる。海面はぐんぐん遠ざかる。片時もこの腕から力を抜くことができなかった。

 ちきしょう、雨よ、風よ、早く止みやがれ!
 僕は狂ったようにそう思ってただけだ。
 
 どれほどの時間、風雨と戦っていたのかわからない。不気味なきしみ音がずっと響いてて、今にも船が真っ二つに砕け散りそうだった。
 沈没となったら、いくら自分が滑らないように気をつけていたって意味がなかった。僕は死に物狂いでしがみつきながらも、一方ではほとんど諦めの境地に達してたよ。
 
 そんな状況だったから、てっきり仲間の5、6人は海や甲板に転落してると思ってた。
 だけどようやく静かになり、空に薄日の差し始めた頃、みんなフラフラと集合してね。点呼を取ったら、全員がその場に揃ってたんだ。これこそ奇跡だよ。

「よし、全員無事だな。ご苦労であった」
 いつもしかめっ面の掌帆長も、さすがにこの時はニコニコ顔だったよ。
 船の傷みは相当なもんで、大工が補修に駆けずり回ってたけど、とにかく人間は無事だった。僕たち服を脱いで乾かしながら、互いに肩を叩いて健闘をたたえ合ったよ。

 ところがさ。ほっとしてる場合じゃなかったんだよ。

 うちの船が無事でも、他の船はそうじゃなかった。船団の一翼を担っていたアルベルティナ号が、座礁しちゃったんだってさ。

 ああ、確かに向こうに見えるよ。ほらあそこ。斜めに傾いだ船体があるだろ?
 動けなくなったアルベルティナ号だ。ざまあねえな。

 また掌帆長が出て来て、僕たち水夫は整列した。まったく休む暇もありゃしない。
「総帆展帆!」
 ええっ。また張るのかよ! さっきあれほど苦労して畳んだ帆だぜ?

 だが、命令とあっちゃ仕方がない。上半身裸のまま、僕たちは出航の時と同じように帆柱によじ登り、再び縄を解いて帆を張った。
 無事だった三隻が全力疾走して、アルベルティナ号を引っぱって助けるんだってさ。くっそ。
 
 でも見てたらさ、巨大な怪我人は大きなきしみ音を立てて、本当に岩礁を離れたよ。

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