第34話 階級闘争
文字数 1,938文字
日々は容赦なく過ぎていった。
季節が進み、木々の緑がどんどん濃くなって、ミカワの腹が身動きが取れないほど大きくなった頃、とうとう南風とともに今年のバタヴィア船二隻とその積荷が到着した。
長崎の町は、歓喜と歓迎の嵐だ。
僕たちと入れ替わる新たな駐在員も到着した。
そして僕には、バタヴィアへの帰還の辞令だ。すべて予想通りさ。
積荷がどんどん降ろされ、日本の商人や役人が次々に出島へやってきて、僕の仕事はまた忙しくなった。あれこれ考えてる暇なんてないのが、逆に有り難かったよ。
だけど商館長は何を思ったか、山のような書類に顔を埋める僕に声をかけてきた。
「ウィレム。その仕事は後でいいから、部屋に来なさい」
ちょっと血の気が引いたよ。スウェールスさんの声に棘があったわけじゃないけど、少し強い口調だったから。
スウェールスさんに続いてカピタン部屋に入って、僕が戸を閉めた。もうすぐ任期の切れる商館長は机にゆったりと腰掛け、黙ってクレーパイプに刻み煙草を詰めてたよ。
「……別れなさい」
その口調は静かだったよ。他人が聞いたら、叱責だとは思わないだろうな。
でも僕には、スウェールスさんの怒りははっきりと感じられた。この人にしてみりゃ、せっかく目をかけてやった部下に裏切られた気分なんだろう。
僕が返事をせずにいると、スウェールスさんは机の上で前のめりになって、じっと僕を見つめてきた。
「君を心配しているんだよ。この国であまり財産を取り崩しては、この先、破滅しか待っていないからね」
実は、ちょうどその前日、ミカワはケースケに付き添われて長崎市内の実家に戻ってた。体調がすぐれず、静かな所で横になっていたいっていう話だった。
スウェールスさんからすれば、彼女が姿を消した今が好機だっていうんだろう。今度は椅子の背もたれに身を預け、商館長は視線だけまっすぐ僕に向けてきた。
「すべきことは分かっているね、ウィレム? 女には小遣いでも渡して、納得してもらうんだ。そういう事例は多いから心配ない。日本側もそれで文句は言わないだろう」
個人と組織の相克。こういう時は、絶対に組織を優先させなくてはならない。
スウェールスさんも懇々と諭してきた。今はつらいだろうが、時がきっと解決してくれる。彼女もきっと分かってくれるだろうって。
僕のために言ってくれているのはよく分かるし、スウェールスさんは正しかった。まったく、暴力的なほどに正しかった。こんな人を裏切るなんて不可能だ。
僕は後ろで手を組んでうなだれてた。
インドという地獄の植民地世界に来た以上、僕だってこの手は汚してきた。何人殺したのか、何人の女とやったのか、自分でも分からない。今さら善人のふりをする気もないよ。
それでも、別の警鐘が遠くから鳴り響いている。
あの伊万里の皿を見たからだ。絵画と相通ずる一瞬の命のきらめきがあったからだ。
「……スウェールスさん。あなたは、大切なものを奪われたことがありますか」
振り絞るように、僕はそう言った。
僕は今度こそ奪われちゃいけないんじゃないだろうか。今度こそ自分に嘘をついちゃいけないんじゃないだろうか。
ここで踏みとどまらないと、人としての僕は終わりだって、そんな気がするんだ。
窓を背にしたスウェールスさんは、いつもより影の濃い目を向けてくる。ここで気圧されてはならなかった。紳士は裏の顔を持ってるって、僕はもう知ってるんだ。
「僕はキリスト教徒です」
涙が落ちた。長い年月をかけて溜まってきた心の澱が、ついに爆発する。
「最後に残った良心のかけらというものがあります。それさえ捨てろとおっしゃるなら、僕はもう出世なんてできなくていい!」
もう何がどうなってもいいと思った。同時に、ああそうだったのかと思った。うまく体裁を整えて競争に打ち勝っていく「ずるい」人々のことを、僕はこんなにも憎んでいたんだ。
これは僕なりの階級闘争なのかもしれない。スウェールスさんのことは、僕は一商人として尊敬する。だけど、やっぱり高い壁の向こう側の人だ。
スウェールスさんが困ってるのに気づいて、僕、慌てて拳で濡れた頰を拭ったよ。
「商館長。僕を引き上げて下さったことには感謝しています。でもどうか、僕に後悔のない選択をさせて下さい」
愚かだってわかってるさ。どこの国でも人身売買なんか普通のことだ。奴隷にいちいち同情してたら、こっちの身が持たないよな。
でも僕は決めた。そういう世の中の常識の方と決別する。上辺だけ取り繕って涼しい顔をしているような、そんな卑怯な道を僕は取りたくない。
「彼女はバタヴィアに連れて帰ります。僕自身はどうなってもいい、とにかく今は、金で売り買いされる彼女を救いたいんです」
季節が進み、木々の緑がどんどん濃くなって、ミカワの腹が身動きが取れないほど大きくなった頃、とうとう南風とともに今年のバタヴィア船二隻とその積荷が到着した。
長崎の町は、歓喜と歓迎の嵐だ。
僕たちと入れ替わる新たな駐在員も到着した。
そして僕には、バタヴィアへの帰還の辞令だ。すべて予想通りさ。
積荷がどんどん降ろされ、日本の商人や役人が次々に出島へやってきて、僕の仕事はまた忙しくなった。あれこれ考えてる暇なんてないのが、逆に有り難かったよ。
だけど商館長は何を思ったか、山のような書類に顔を埋める僕に声をかけてきた。
「ウィレム。その仕事は後でいいから、部屋に来なさい」
ちょっと血の気が引いたよ。スウェールスさんの声に棘があったわけじゃないけど、少し強い口調だったから。
スウェールスさんに続いてカピタン部屋に入って、僕が戸を閉めた。もうすぐ任期の切れる商館長は机にゆったりと腰掛け、黙ってクレーパイプに刻み煙草を詰めてたよ。
「……別れなさい」
その口調は静かだったよ。他人が聞いたら、叱責だとは思わないだろうな。
でも僕には、スウェールスさんの怒りははっきりと感じられた。この人にしてみりゃ、せっかく目をかけてやった部下に裏切られた気分なんだろう。
僕が返事をせずにいると、スウェールスさんは机の上で前のめりになって、じっと僕を見つめてきた。
「君を心配しているんだよ。この国であまり財産を取り崩しては、この先、破滅しか待っていないからね」
実は、ちょうどその前日、ミカワはケースケに付き添われて長崎市内の実家に戻ってた。体調がすぐれず、静かな所で横になっていたいっていう話だった。
スウェールスさんからすれば、彼女が姿を消した今が好機だっていうんだろう。今度は椅子の背もたれに身を預け、商館長は視線だけまっすぐ僕に向けてきた。
「すべきことは分かっているね、ウィレム? 女には小遣いでも渡して、納得してもらうんだ。そういう事例は多いから心配ない。日本側もそれで文句は言わないだろう」
個人と組織の相克。こういう時は、絶対に組織を優先させなくてはならない。
スウェールスさんも懇々と諭してきた。今はつらいだろうが、時がきっと解決してくれる。彼女もきっと分かってくれるだろうって。
僕のために言ってくれているのはよく分かるし、スウェールスさんは正しかった。まったく、暴力的なほどに正しかった。こんな人を裏切るなんて不可能だ。
僕は後ろで手を組んでうなだれてた。
インドという地獄の植民地世界に来た以上、僕だってこの手は汚してきた。何人殺したのか、何人の女とやったのか、自分でも分からない。今さら善人のふりをする気もないよ。
それでも、別の警鐘が遠くから鳴り響いている。
あの伊万里の皿を見たからだ。絵画と相通ずる一瞬の命のきらめきがあったからだ。
「……スウェールスさん。あなたは、大切なものを奪われたことがありますか」
振り絞るように、僕はそう言った。
僕は今度こそ奪われちゃいけないんじゃないだろうか。今度こそ自分に嘘をついちゃいけないんじゃないだろうか。
ここで踏みとどまらないと、人としての僕は終わりだって、そんな気がするんだ。
窓を背にしたスウェールスさんは、いつもより影の濃い目を向けてくる。ここで気圧されてはならなかった。紳士は裏の顔を持ってるって、僕はもう知ってるんだ。
「僕はキリスト教徒です」
涙が落ちた。長い年月をかけて溜まってきた心の澱が、ついに爆発する。
「最後に残った良心のかけらというものがあります。それさえ捨てろとおっしゃるなら、僕はもう出世なんてできなくていい!」
もう何がどうなってもいいと思った。同時に、ああそうだったのかと思った。うまく体裁を整えて競争に打ち勝っていく「ずるい」人々のことを、僕はこんなにも憎んでいたんだ。
これは僕なりの階級闘争なのかもしれない。スウェールスさんのことは、僕は一商人として尊敬する。だけど、やっぱり高い壁の向こう側の人だ。
スウェールスさんが困ってるのに気づいて、僕、慌てて拳で濡れた頰を拭ったよ。
「商館長。僕を引き上げて下さったことには感謝しています。でもどうか、僕に後悔のない選択をさせて下さい」
愚かだってわかってるさ。どこの国でも人身売買なんか普通のことだ。奴隷にいちいち同情してたら、こっちの身が持たないよな。
でも僕は決めた。そういう世の中の常識の方と決別する。上辺だけ取り繕って涼しい顔をしているような、そんな卑怯な道を僕は取りたくない。
「彼女はバタヴィアに連れて帰ります。僕自身はどうなってもいい、とにかく今は、金で売り買いされる彼女を救いたいんです」