第13話 喜望峰
文字数 1,623文字
そんなわけで、僕は友達が死んだ時には泣かなかった。
なのに、ケープを発って再び船旅が始まり、ついに喜望峰を見た時、言いようのないほど胸が打ち震えてね。それまで心の底に静かに重なり落ちていくだけだった悲しみが、急な海底爆発に接し、渦を巻いて僕を襲ってくるようだった。
びゅうびゅうと風が吹き付ける中、僕は舷側にもたれかかって波の打ち付ける陸地を見た。
灰色の絶望感に押しつぶされそうになりながら、裏切られたと思った。「喜望峰」なんて名がついているからどんなに輝かしい場所かと思っていたのに、海鳥が舞うだけの寒々しい断崖じゃないか。
霧の中で折り重なる岩の絶壁。そんな荒涼とした風景を眺めた時、もはや行く手に希望はないと思った。僕も遠からずヤンと同じ道を行くんだ。
あまりにやるせなくて、僕は紙と木炭を持ち出してきた。なぐり書きをせずにはいられなかった。
くそっ。これが喜望峰だ。白波くだける、絶望の岬だ。
「……すごい絵だな、ウィレム」
ふいにそんな声が上から降ってきた。
木炭をぎゅっと握りしめたまま、僕は顔を上げた。うるさい、と怒鳴り返そうかと思った。
だけど声の主はロドルフだった。そのきれいな顔が真剣な驚きで満たされてるのを見て、僕の胸に巣食うとげとげしい気持ちはすっと消えた。
ロドルフはゆっくりと僕の脇に屈みこんでくる。
「それ、先日亡くなった君の友達への追悼なのか?」
僕は冷めた気分で、パタンと画帳を閉じた。大きなお世話だと思った。
「くだらないだろ? こんな、何の役にも立たない絵」
「そんなことはないさ」
ロドルフは断言し、かすかに笑った。
「君はいつも、一心不乱に絵を描いてるな。好きなことがあるって、うらやましいよ」
画帳の端を、ぎゅっと握りしめる。
ロドルフも僕と同じ海の奴隷なんだって、噛み締めるように思った。たぶんこいつも、何人もの仲間を見送った悲しみを抱えてるんだろう。
僕はこいつに嫉妬してたのかもしれない。彼のやけに気取った、小賢しいところが好きになれないと思ってた。
でもこの船では、僕のつまらない絵を評価してくれる唯一の男だ。
この時、僕は不思議な感覚を覚えた。
なぜだか周囲が光に満ちていき、「喜望峰」の名にふさわしい場所になっていくような感じだった。僕の中で何か大きな希望がせりあがってきて、絶望にとって代わっていくんだ。
後で思ったんだけど、もしかしたらこのとき僕も壊血病になりかけていたのかもしれない。死期の近づいた患者は、しばしばこういう体験をするって聞いたことがある。
こいつにすべてを託してもいいんじゃないか。
確信に近い形で、僕はそう思った。
「なあロドルフ。お願いがあるんだけど」
するとロドルフの顔に、さっと警戒の色がよぎった。
「……何だよ? 突然」
面倒に巻き込まれるのは御免だと思ったんだろうな。だけど僕はひるまない。
「僕が先に死んだら、君に後始末を頼みたいんだけど、いいかな?」
ロドルフは呆気に取られた様子で口を開け、僕を見つめて、しばらく何も言わなかった。そんな重要なことを頼まれるほど、僕とは親しくないと思ったんだろう。
でもヤンを亡くした僕に、他に頼める奴がいないってことは分かってくれたみたいだ。やがてロドルフはくすっと笑い出し、いつもの鼻持ちならない所作で、額にかかるきれいな前髪をはらいのけたよ。
「ま、いいけどさ。ウィレム。僕が先に死ぬかもしれないよ?」
「それはお互い様だ」
僕は力を込め、拳を握りしめる。
「二人とも自分の命を守るために、やれるだけのことはやる。その上でどちらかが先に力尽きたら、もう片方が始末をつける。そういう話だ」
「よしわかった」
ロドルフはようやく力強くうなずき、手を差し出した。
「お互い、遺書を作って交換しておこう」
ぎゅっと力を込めた手から、僕と同じ覚悟が伝わってきたよ。
早くも南極海の、凍てつく風が吹き始めていたけど、彼の手は意外なほど暖かかった。
なのに、ケープを発って再び船旅が始まり、ついに喜望峰を見た時、言いようのないほど胸が打ち震えてね。それまで心の底に静かに重なり落ちていくだけだった悲しみが、急な海底爆発に接し、渦を巻いて僕を襲ってくるようだった。
びゅうびゅうと風が吹き付ける中、僕は舷側にもたれかかって波の打ち付ける陸地を見た。
灰色の絶望感に押しつぶされそうになりながら、裏切られたと思った。「喜望峰」なんて名がついているからどんなに輝かしい場所かと思っていたのに、海鳥が舞うだけの寒々しい断崖じゃないか。
霧の中で折り重なる岩の絶壁。そんな荒涼とした風景を眺めた時、もはや行く手に希望はないと思った。僕も遠からずヤンと同じ道を行くんだ。
あまりにやるせなくて、僕は紙と木炭を持ち出してきた。なぐり書きをせずにはいられなかった。
くそっ。これが喜望峰だ。白波くだける、絶望の岬だ。
「……すごい絵だな、ウィレム」
ふいにそんな声が上から降ってきた。
木炭をぎゅっと握りしめたまま、僕は顔を上げた。うるさい、と怒鳴り返そうかと思った。
だけど声の主はロドルフだった。そのきれいな顔が真剣な驚きで満たされてるのを見て、僕の胸に巣食うとげとげしい気持ちはすっと消えた。
ロドルフはゆっくりと僕の脇に屈みこんでくる。
「それ、先日亡くなった君の友達への追悼なのか?」
僕は冷めた気分で、パタンと画帳を閉じた。大きなお世話だと思った。
「くだらないだろ? こんな、何の役にも立たない絵」
「そんなことはないさ」
ロドルフは断言し、かすかに笑った。
「君はいつも、一心不乱に絵を描いてるな。好きなことがあるって、うらやましいよ」
画帳の端を、ぎゅっと握りしめる。
ロドルフも僕と同じ海の奴隷なんだって、噛み締めるように思った。たぶんこいつも、何人もの仲間を見送った悲しみを抱えてるんだろう。
僕はこいつに嫉妬してたのかもしれない。彼のやけに気取った、小賢しいところが好きになれないと思ってた。
でもこの船では、僕のつまらない絵を評価してくれる唯一の男だ。
この時、僕は不思議な感覚を覚えた。
なぜだか周囲が光に満ちていき、「喜望峰」の名にふさわしい場所になっていくような感じだった。僕の中で何か大きな希望がせりあがってきて、絶望にとって代わっていくんだ。
後で思ったんだけど、もしかしたらこのとき僕も壊血病になりかけていたのかもしれない。死期の近づいた患者は、しばしばこういう体験をするって聞いたことがある。
こいつにすべてを託してもいいんじゃないか。
確信に近い形で、僕はそう思った。
「なあロドルフ。お願いがあるんだけど」
するとロドルフの顔に、さっと警戒の色がよぎった。
「……何だよ? 突然」
面倒に巻き込まれるのは御免だと思ったんだろうな。だけど僕はひるまない。
「僕が先に死んだら、君に後始末を頼みたいんだけど、いいかな?」
ロドルフは呆気に取られた様子で口を開け、僕を見つめて、しばらく何も言わなかった。そんな重要なことを頼まれるほど、僕とは親しくないと思ったんだろう。
でもヤンを亡くした僕に、他に頼める奴がいないってことは分かってくれたみたいだ。やがてロドルフはくすっと笑い出し、いつもの鼻持ちならない所作で、額にかかるきれいな前髪をはらいのけたよ。
「ま、いいけどさ。ウィレム。僕が先に死ぬかもしれないよ?」
「それはお互い様だ」
僕は力を込め、拳を握りしめる。
「二人とも自分の命を守るために、やれるだけのことはやる。その上でどちらかが先に力尽きたら、もう片方が始末をつける。そういう話だ」
「よしわかった」
ロドルフはようやく力強くうなずき、手を差し出した。
「お互い、遺書を作って交換しておこう」
ぎゅっと力を込めた手から、僕と同じ覚悟が伝わってきたよ。
早くも南極海の、凍てつく風が吹き始めていたけど、彼の手は意外なほど暖かかった。