第10話 光の画家
文字数 2,005文字
記憶のひだの隙間から、静謐な光が差し込んでくる。
デルフトに住んでいた頃の話だ。
僕の父は売れない画家だった。家族は祖父母世代の遺産のお陰で何とか食いつないでいたものの、当然ながら絵が売り物にならなければ生活は厳しいものだった。
弟や妹の泣き声がいつも響く家。逃げるように酒に溺れていった父。
そんな父のだらしなさを見るにつけ、僕はあんな風になるのは嫌だと思った。
結局、画家にはならないと決めた。
だけど憧れは、そう簡単に捨てられるもんじゃないのかもしれない。消したつもりで、まだ胸の奥に燻り続ける熾火のように、故郷を遠く離れた今も、僕は絵画のことを考えている。
そもそも、絵を描き始めたきっかけは父じゃなかった。
近所に『空飛ぶ狐』っていう宿屋があって、そこのご主人がなかなかの人気画家だったんだ。その人がカッコよく見えたから、僕は見よう見まねで描くようになった。父の手ほどきを受けるようになったのはその後さ。
あれは五歳ぐらいの時だったかな。いったい何の用事だったのかも覚えてないけど、ある雨の日のことだった。僕は父に手を引かれて、聖ルカ組合の建物に行ったんだ。
中ではちょうどヨハネス・フェルメールさんが、自作の絵を二枚並べて人に見せてるところでね。彼は僕に気づくと、他の人の相手をしつつもニッコリ手招きしてくれた。
僕はちょこちょこと走り寄って、大人の膝の間から二枚の絵を見比べた。よく分からないながら、二枚とも何だかすごい絵だなあと圧倒されたのを覚えている。それぞれ画面いっぱいに光があふれていた。
「……これとこれ、同じ人?」
僕が聞くと、フェルメールさんはくすっと肩を揺らした。
「そうそう」
でもね、と彼は二枚の絵を順に指さした。
「こっちが天文学者、こっちは地理学者なんだ」
何だか不思議だった。画面はとても静かで、人物は制止しているようにすら見えるのに、そこには何か劇的で壮大な世界があるんだ。
僕は食い入るように絵に見入った。窓から差し込む光の中、人物は輝くような青い服をまとってる。海のようなその深い青に、僕は惹かれずにはいられなかった。
フェルメールさんはそういう子供の反応が面白いと感じたみたいだった。
「これはヤパンという国の、キモノという服だよ」
他にも何だかんだと話していたけれど、当時の僕に理解できたことは多くない。ただ海の向こうには、何だかすごい世界があるって思ったんだ。
そう、僕は画家にはなれなかった。フェルメールさんと同じ生き方はできなかった。
だけどこうして船に乗っている今、やっぱり絵を描きたい。ネーデルラントに生まれて、絵画に魅せられない奴なんて、いないんじゃないだろうか。
だったらせめて、とも思うんだ。船乗りになるのも一つの手ではないかと。
あのロドルフと話してから、僕はその思いを一層強くした。今は自分の置かれた場所で、少しでも良い仕事をすべきだって。
この目で知らない国を見てやるんだ。
夢は修正したっていい。他の手段で美の高みに到達すればいい。海に描く航跡こそが、僕の描く巨大な絵になる。そんな風に考えたっていいじゃないか。
そう、僕はある意味救われた。ロドルフって奴は、いろんな意味で僕に手を差し伸べてくれたのかもしれない。目の前の仕事の処し方も、生き方を考えることでも。
僕はあいつと話をしたかった。あいつがどんな絵を好きなのか聞きたかった。
だけど船内は大混雑している上に、あれこれ雑用が多くてなかなか話す機会はない。元アルベルティナ号の船員たちを、ときどき遠目に窺うぐらいが精いっぱいだった。
だけど、どこにいても、ロドルフの姿はすぐに捉えることができた。
やっぱりあいつは、他の奴らとどこか違うみたいだ。薄汚い船乗りたちの中にあって、あいつの上にだけ光が差してる。あいつがいつも、仲間たちを率いて一つの方向に導いてるのが分かる。
なぜそんなことができるのか全然分からないけど、羨ましいとは思った。いいな、僕もいつかあんな風になりたいな、と思った。
あの刑罰の件で、僕は正直、同じ班の奴らをちょっぴり恨んだよ。一人ぐらい、勇気を出して仲間を救おうと思った奴はいなかったのかよって。いや、一人は無理でも、みんなで力を合わせて何とかしようって、そのぐらい考えてくれてもいいだろって、怒鳴りつけてやりたかった。
だけど僕もその立場だったら、絶対に仲間を見捨てなかったとは言い切れない。その弱さを、あまり責められるものでもないような気がしたんだ。
それに、みんな僕の体調を心配してくれたし、背中の傷が癒えるまで何かといたわってくれたんだよね。誰もが、優しいことは優しいんだよ。
さらに言えば、ここでは仕事も生活も、みんなと協力し合わねばやっていけない。
だから僕も、暗い感情をひきずるのをやめた。僕は翌日にはもう、みんなと一緒にわいわい食事をしてたよ。
デルフトに住んでいた頃の話だ。
僕の父は売れない画家だった。家族は祖父母世代の遺産のお陰で何とか食いつないでいたものの、当然ながら絵が売り物にならなければ生活は厳しいものだった。
弟や妹の泣き声がいつも響く家。逃げるように酒に溺れていった父。
そんな父のだらしなさを見るにつけ、僕はあんな風になるのは嫌だと思った。
結局、画家にはならないと決めた。
だけど憧れは、そう簡単に捨てられるもんじゃないのかもしれない。消したつもりで、まだ胸の奥に燻り続ける熾火のように、故郷を遠く離れた今も、僕は絵画のことを考えている。
そもそも、絵を描き始めたきっかけは父じゃなかった。
近所に『空飛ぶ狐』っていう宿屋があって、そこのご主人がなかなかの人気画家だったんだ。その人がカッコよく見えたから、僕は見よう見まねで描くようになった。父の手ほどきを受けるようになったのはその後さ。
あれは五歳ぐらいの時だったかな。いったい何の用事だったのかも覚えてないけど、ある雨の日のことだった。僕は父に手を引かれて、聖ルカ組合の建物に行ったんだ。
中ではちょうどヨハネス・フェルメールさんが、自作の絵を二枚並べて人に見せてるところでね。彼は僕に気づくと、他の人の相手をしつつもニッコリ手招きしてくれた。
僕はちょこちょこと走り寄って、大人の膝の間から二枚の絵を見比べた。よく分からないながら、二枚とも何だかすごい絵だなあと圧倒されたのを覚えている。それぞれ画面いっぱいに光があふれていた。
「……これとこれ、同じ人?」
僕が聞くと、フェルメールさんはくすっと肩を揺らした。
「そうそう」
でもね、と彼は二枚の絵を順に指さした。
「こっちが天文学者、こっちは地理学者なんだ」
何だか不思議だった。画面はとても静かで、人物は制止しているようにすら見えるのに、そこには何か劇的で壮大な世界があるんだ。
僕は食い入るように絵に見入った。窓から差し込む光の中、人物は輝くような青い服をまとってる。海のようなその深い青に、僕は惹かれずにはいられなかった。
フェルメールさんはそういう子供の反応が面白いと感じたみたいだった。
「これはヤパンという国の、キモノという服だよ」
他にも何だかんだと話していたけれど、当時の僕に理解できたことは多くない。ただ海の向こうには、何だかすごい世界があるって思ったんだ。
そう、僕は画家にはなれなかった。フェルメールさんと同じ生き方はできなかった。
だけどこうして船に乗っている今、やっぱり絵を描きたい。ネーデルラントに生まれて、絵画に魅せられない奴なんて、いないんじゃないだろうか。
だったらせめて、とも思うんだ。船乗りになるのも一つの手ではないかと。
あのロドルフと話してから、僕はその思いを一層強くした。今は自分の置かれた場所で、少しでも良い仕事をすべきだって。
この目で知らない国を見てやるんだ。
夢は修正したっていい。他の手段で美の高みに到達すればいい。海に描く航跡こそが、僕の描く巨大な絵になる。そんな風に考えたっていいじゃないか。
そう、僕はある意味救われた。ロドルフって奴は、いろんな意味で僕に手を差し伸べてくれたのかもしれない。目の前の仕事の処し方も、生き方を考えることでも。
僕はあいつと話をしたかった。あいつがどんな絵を好きなのか聞きたかった。
だけど船内は大混雑している上に、あれこれ雑用が多くてなかなか話す機会はない。元アルベルティナ号の船員たちを、ときどき遠目に窺うぐらいが精いっぱいだった。
だけど、どこにいても、ロドルフの姿はすぐに捉えることができた。
やっぱりあいつは、他の奴らとどこか違うみたいだ。薄汚い船乗りたちの中にあって、あいつの上にだけ光が差してる。あいつがいつも、仲間たちを率いて一つの方向に導いてるのが分かる。
なぜそんなことができるのか全然分からないけど、羨ましいとは思った。いいな、僕もいつかあんな風になりたいな、と思った。
あの刑罰の件で、僕は正直、同じ班の奴らをちょっぴり恨んだよ。一人ぐらい、勇気を出して仲間を救おうと思った奴はいなかったのかよって。いや、一人は無理でも、みんなで力を合わせて何とかしようって、そのぐらい考えてくれてもいいだろって、怒鳴りつけてやりたかった。
だけど僕もその立場だったら、絶対に仲間を見捨てなかったとは言い切れない。その弱さを、あまり責められるものでもないような気がしたんだ。
それに、みんな僕の体調を心配してくれたし、背中の傷が癒えるまで何かといたわってくれたんだよね。誰もが、優しいことは優しいんだよ。
さらに言えば、ここでは仕事も生活も、みんなと協力し合わねばやっていけない。
だから僕も、暗い感情をひきずるのをやめた。僕は翌日にはもう、みんなと一緒にわいわい食事をしてたよ。