第14話 もう一つの地獄

文字数 1,530文字

 本国を出航してから十ヶ月あまり。
 磯臭いバタヴィアの地に、僕もロドルフもちゃんと生きて上陸したよ。
 
 だけどこの時にはどの船乗りもげっそりして、満身創痍という感じだった。みんな、何とか生きてるっていうだけだ。

「……やっと水が飲める……」
「……やっとゆっくり休める……」
 うわ言のようにつぶやきながら、幽霊のようにフラフラと船を降りたんだ。お互いに体を支え合ったり、歩けない奴は担架で運ばれたりしてな。

 だけど、ここは安住の地じゃなかった。
 それどころか、熱帯の植民地は海以上に過酷な世界だった。僕たちはそこに、もう一つの地獄を見つけてしまったんだ。

 すぐに分かってきたのは、ここがさらなる病気の巣窟だってこと。到着時に弱っていた人は病院に運ばれて良くなるかと思いきや、多くの場合助からない。逆にもっと悪くなって死んでいくらしいんだ。
 しかも僕たちの宿舎からは、元気だったはずの人まで新たに倒れ、運ばれていく。

 そんなだから、バタヴィアの病院はいつも患者であふれてて、寝台の数なんか足りやしない。ついでに遺体安置所も、火葬場も足りやしない。地面に大きな穴が掘られ、まとめてそこに放り込まれるって話だ。

 一緒に到着した水夫は、気付いたら本国出港時の半分ぐらいになってたよ。
 みんな病死だ。やっとここまで来たのに、僕も植民地で死ぬことになるのかな?

 じっとりとへばりつく暑さの中、蚊が常に羽音を震わせててさ、こいつらが病気を媒介してるんだって。これじゃ、いくら気をつけろと言われても無理ってもんだ。
 
 港の周辺では、大勢の奴隷たちが泥まみれで働かされてる。ジャワ人をはじめ、いろんな部族の混成だそうだ。大型船の入港ができるようにするには常に浚渫が必要らしいけど、そもそもチリウン川の河口に港を作ったのが間違いだったんじゃないのかな?

 原住民も、全員が奴隷にされるわけじゃないんだって。彼らの中にも対立する部族というのがあって、戦争に買った方が負けた方を売るんだそうだ。弱い立場の人間の中で、さらに弱肉強食の世界がある。被害者が加害者となって、新たな被害者を産んでいく。

 鞭を持ったあの男が見える?
 あいつはオランダ人じゃない。「模範的」な奴隷だ。

 オランダ人の間でもそうなんだけど、ひどい目に遭ってきた人間っていうのは、他人を傷つけるのに何の抵抗もありゃしない。むしろ自分の受けた暴力を何倍にもして、もっと弱い奴らにぶつけるんだ。
 それを平気でできる奴がああして選ばれて、処遇が良くなるんだよな。

 脱走を企てた奴隷は、あそこで処刑されるんだ。
 ぶら下がってんのが見えるだろ? 見せしめのために、ああやってずっと死体が放置されてることもしばしばだよ。

 いや、あんなの僕だって見たくない。

 これがオランダ人のもたらした正義だって?
 馬鹿らしくって笑っちゃうよね。

 植民地では二重、三重の規範がむしろ普通のことらしい。
 もちろんここでも、誰もが自分は敬虔なキリスト教徒のつもりなんだよ? だけどこの有様を目にしたら、ほとんど思考は停止する。信仰と暴力という、どう見ても矛盾する二つの世界が、ここでは乱雑に交じり合う。みんな目を伏せ耳を塞いで、とりあえず現実から逃げてるんだ。

 それを間違ってるとか何とか、糾弾するつもりはない。僕だって、少なくとも奴隷に同情してる余裕がないのは確かなんだ。

 よく分かったよ。人を踏み台にしてでも自分は助かろう、自分の身だけは守ろうと、むしろそう思わなきゃいけない。それが生き抜くための真実だ。だって現実に、利己的でしぶとい奴しか生き残れないじゃないか。

 だから僕も、悪魔になることにする。
 それでいいんだ。生き抜くためにそうするんだから。
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