第39話 再び、十角皿

文字数 1,416文字

 ただならぬ様子でした。彼女は激しい形相でずかずかと長卓を回り込み、私の方へ近づいてきます。
 思わず身構えました。つかみかかってくることは分かっていました。嵐よりも海賊よりも、恐ろしい恐怖が迫ってくるようです。

 でも、それは一瞬のこと。彼女がわっと声を上げたとき、その恐怖は消えました。
 私を激しく揺さぶりながら泣く女を、私は抵抗もせずにただ見つめました。言葉は分からないのですが、彼女が何を嘆き、何に対して怒りを覚えているのかは手に取るように分かりました。

 どこの国でもこんな時、人は同じことを思うでしょう。自分が待っていたのはお金じゃない、生きたあの人を返してと、彼女が言いたいのはただそれだけでしょう。

 慌てて追いかけてきたナムラ氏が彼女を取り押さえ、力ずくで引き離そうとしました。
 私は、そんなナムラ氏を手で押し留めます。
「構いませんよ。これで気が済むのなら、好きにさせてあげて下さい」
 本当に、殴られても蹴られても構わないと思いました。
 
 ですが、向こうもそう言われると逆に動けなくなってしまうようです。彼女の全身を包んでいた攻撃的なたたずまいが消え、彼女は僕から手を離しました。
 そして今度は近くにあった椅子にどさりと倒れ込み、卓上に伏して号泣してしまいました。

 私もナムラ氏も、言葉もなく立ち尽くすのみです。

「……昨年の秋、赤ん坊は元気に生まれてきたんですよ」
 しばらく後、ナムラ氏がぽつりと言いました。
「かわいい男の子でした。肌や髪の色は判然としませんでしたが、眉毛の形などはブルクハウゼン殿に似ていたと思います」

 しかし赤ん坊の容体は急変。周囲の者は必死に看病したにも関わらず、七日後にあえなく息を引き取ったそうです。今は彼女の家の墓に埋葬されているという話でした。

 私は静かに嘆息しました。
 これで終わりです。ここでどう立ち回っても、あいつの代わりにはなれません。私の出番はここまでです。
 だいたい、私は駐在員ではなく、すぐにバタヴィアに帰る予定なんです。もう二度と、ここの人々に会うこともないでしょう。

 それでも、と最後に思いました。この夏、私はこうして長崎にやって来ました。何かに導かれるようにして、ここへやって来ました。
 だからせめて、何か一つでも。

 私は彼女の椅子の前に、静かに片膝を付きました。
「お嬢さん。何か、私にできることはありませんか?」

 少し後、我々三人は出島内の道を歩いていました。
 地味な身なりの日本の娼婦が先に立ち、羽付き帽子のオランダ商人と日本の役人がその後に続きます。この集団が奇妙に見えるのか、何人かの日本人がわざわざ足を止めてこちらを見ておりました。

 先頭を行く娘の手には、一人の船乗りが命と引き換えにした銀貨が握られています。

お土産(アーンデンケン)お土産(アーンデンケン)
 商人たちが茣蓙(ござ)の上に籠や根付や寄木細工の箱を並べている前を素通りし、彼女はすたすたと東洋磁器の展示場の中へ入って行きました。
 目的の商品は決まっていたんでしょう。彼女は迷う様子もなく、一番奥にある店に足を向けました。

 そして指差したのは、数枚積み上げられた十角皿です。
 しかし、そこにいた店主が女を軽く見ているのは明らかでした。彼女には買えないと決め込んでいるのか、あるいは明らかに娼婦と分かる者が出入りしては店の看板に傷が付くと思っているのかは分かりません。とにかく話にならない、帰れとばかり、追い払うように手を振り払っています。

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