第9話 帆柱の向こう

文字数 1,887文字

「……ごめんな。もっと早く止めるべきだった」

 誰かが人目を忍んで僕に近寄り、こっそりささやいてきたのが分かった。
 見上げると、そいつは僕に向かってうなずいた。このならず者集団の中にいながら、はっとするほどきれいな目をしていて、水夫にはもったいないような男だった。
 ははあ、こいつは僕より女にモテるだろうな、なんてどうでも良いことが頭に浮かぶ。

 彼は周囲を気にしつつ、もう一度僕に顔を近づけてきた。
「頑張れよ。後で水と食べ物を持ってきてやるからな」
 
 こいつが命を張って助けてくれたのか?
 ぐったりと倒れたまま、僕は内心いぶかしんだ。親しくもないのに一体何の目的だろう。

 だけど立ち去るその男を見送った後、急に思い出した。
 確かあいつ、アルベルティナ号の乗組員の一人だ。喧嘩の相手方ではあるんだけど、そういえばさっき必死に止めに入っていたのが、あいつだったような気がする。

 もしかしたらあいつ、僕だけが懲罰の対象になって、自分たちが免れたことに罪悪感があったんじゃないだろうか。それで見ていられなくなって、止めに入ってくれたんじゃないだろうか。
 良い方向に解釈しようと思えばそういうことになる。

 ここまで傷つけられてしまった以上、僕はもう人の善意なんて簡単には信じられない。だけど、皆が無視する中でただ一人動いてくれた奴がいるのは確かだった。同じ班の仲間たちでさえできなかったことを、あいつはやってくれたんだ。

 きれいな目の男は約束を守り、夜中に本当にやってきた。
 僕を助け起こし、水を飲ませてくれた後、そいつは隣で膝を抱えて座りなおした。

「……ロドルフっていうんだ」
 喧嘩についての謝罪は特になかったけど、その代わりとばかり、彼はふっと夜空を見上げた。しばらくの間、僕と一緒にいてくれるつもりのようだった。
「君の絵、見せてもらったよ。素敵な人魚だった」

 こんな時に絵の話をされても困っちゃうよね。こっちは口を利くこともできないんだから。
 でも僕は皮肉めいた思考をそこでピタッと止めた。そして今もらったばかりの言葉を、心の中でもう一度咀嚼したんだ。

 力の入らない手が、小刻みに震える。この体を縛り付ける鎖が、小さく音を立てる。

 沁みるように思った。こいつは僕の絵を褒めてくれたんだなって。僕のことを分かってくれる奴が、この船にいるんだなって。
 だから何となく彼の視線を追い、僕もどうにか目を上げたんだ。

 すると、そこは満天の星々だった。
 ほんとだ。信じられないぐらい、きれいだ。

「つらいけど、諦めるな。一緒にインドに行こう」
 ロドルフの言葉は掌帆長のそれと同じなのに、響きは全然違ってた。
「何が何でも、インドにたどり着こう。そして一緒に成功しよう」

 素直に感動なんてしたわけじゃない。
 でもそのとき、僕の中で何かが刺し貫かれたような気がしたんだ。

 僕はこの男の、人生の舵の取り方に驚いてた。
 こいつ、周囲を冷静に見ている。それでいて、やろうとしている。自分の人生を生きようとしている。こういう奴が同年代にいるんだって、僕は衝撃を抑えきれなかった。

 商人の国オランダでは大商人、海運業者、金融業者がすなわち権力者だ。もちろん古くからの貴族もいるし、権力の世襲はしっかりとなされてて、庶民がおいそれと近づけるもんじゃないけど、金持ち紳士に勝つことは必ずしも不可能じゃない。

 やり方はただ一つ。インドで成功することだ。

 もちろん船乗りはみんな、その思いを胸に秘めてるよ。だけどこの向こう見ずな挑戦を、今まで僕はどこか現実のものとして捕らえてなかったような気がする。挑戦なんてどうせ失敗するもんだって、心のどこかで馬鹿にしてたような気がする。
 このロドルフって男は違うんだ。慎重でありながら、確実に前に進む人間の匂いがする。

 今、僕も腑に落ちた。その通りだと思った。
 図らずもこの地獄に足を踏み入れてしまった者としては、もうそこを狙っていくしかないんだ。どうせ命がけの旅になるんだし、挑戦するなら大きな夢の方がいい。

 この夜のことを、僕はインドにたどり着いた後、何度も思い出すことになる。
 ロドルフは、ぼろ船にかろうじて備え付けられた羅針盤や六分儀を思わせた。何も持たずに大海に乗り出してしまった僕と違い、彼は自分の立ち位置も、向かうべき方向もちゃんと把握し、いざとなればまっすぐに前を見据えて全力疾走できる。

 敵わない、と思う。僕にはとても、そんな能力はない。
 だけど同じ水夫であるこいつがやるなら、僕にもできるかもしれないとも思う。

 帆柱と綱の向こうは、粉を散らしたような夜空だ。

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