第30話 言葉の通じない女

文字数 1,408文字

「ミカワ。こっちへおいで」
 僕が呼ぶと、彼女はうれしそうに駆け寄ってくる。音がするほどの勢いで飛びついてくるから、僕はよろけそうになって抱き止める。

 その場で口づけを交わして、再びぎゅっと抱き合った。
 どれほど強く抱きしめても、十分とは思えなかった。人目を気にする余裕なんかありゃしない。

 女なんて、その正体は知れたものだと思ってた。そりゃ最初こそ、あの柔らかな肉体の奥には想像を絶するような、きらびやかな秘密があるんじゃないかって、男たちは無駄に期待をするもんだ。
 でも結局は裏切られ、その女のだらしなさ、誠意のなさに絶望して。情けないけどその繰り返しだ。
 やがては僕も悟ったんだよね。がっかりしたくなければ、最初から一時の快楽以外に何も求めちゃいけないんだって。

 だけどミカワは違うような気がした。その肌は奇跡のように白くて柔らかくて、砂漠のように乾ききった僕の体内に恵みの雨を降らしてくれる。傷がふさがり、命が芽吹くような気がした。よくぞこんな奇跡に出会わせてくれたって、僕は自分をここへ運んできた海に感謝したいぐらいだった。
 
 僕の背中の、はみ出たまま固まった肉に触れた時、ミカワは抗議の声を上げて泣いた。あの鞭打ちを見ていないのに、彼女は僕の痛みを一緒に背負ってくれていた。言葉の通じない女が、なぜこんなにも僕を分かってくれるんだろう。
 背中に抱きついた彼女の手が両側から前に伸びてきて、僕はそれをぎゅっと握りしめた。震えるような、熱いため息がこぼれた。商館の部屋の窓から淡い光が差し込み、まるで教会にでもいるような気がしたよ。

 日本にバタヴィア船が来航するのは年に一度。駐在員は船の来ている夏の間は交易事務に忙しいものの、それが一段落すると唐突にやることがなくなった。誰もが夏以外は時間を持て余すものらしかった。むしろ出島に閉じ込められている分、少しでも外で体を動かせっていうのが商館長の命令。だからみんな、好みに合わせて乗馬とか散歩をしている。

 日本の役人たちも、オランダ人を退屈させまいと娯楽の提供には熱心だった。ヤパンの祭礼だとか何とか理由をつけて、接待を受ける機会は結構あったよ。

 で、宴会のたびに女を呼ぶのが通例になってる。
 他の商館員には毎回違う女にしてる奴もいたけど、僕は決まってミカワを呼んだ。他の女なんてどうでも良かった。

 本当は宴会以外の日もミカワに会いたかった。会いたくて会いたくて、僕の頭は彼女のことでいっぱいだった。僕の画帳はミカワの顔、ミカワの髪、ミカワの着物で埋め尽くされていく。

 言葉の通じない女と付き合うとき、僕は気を遣う必要がなくて楽だと思ってた。何しろその場を盛り上げなくていいんだし、失言で相手を傷つける恐れもないんだからな。

 だけど今の僕には、そういうことを考える余裕すらなかった。無言のうちに、二人の間には美しい詩が流れてる。視線と互いの体温があれば、他には何もいらなかった。

 ミカワは僕の左腕の入墨を気にして、よく触ってた。
「次はこの中に、君の名を入れてもらうからな?」
 心臓の形を指して言い聞かせたけど、通じたかどうか。
 
 にしてもケースケの奴、相変わらず僕たち二人に付いてくるんだよね。
 さすがに部屋の中には入って来ないけど、僕が彼女と腕を組んで庭園を散歩するような時も、振り向くとやっぱりいる。お役目はわかるけど、ちょっとは気を利かせて欲しいよな。


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