第37話 別れ

文字数 1,342文字

 いよいよ出航の刻限が迫ってきたとき、僕は船室に閉じこもってた。

 取引相手や奉行所勤めの日本人とはすでに別れの挨拶を済ませてたから、もう話すこともなかったんだよね。それに一年なんてあっという間だ。どうせ僕はまた長崎に来る。

 そう、僕は戻って来る。いろんな人に掛け合えば、不可能ではないだろう。オランダ人も約束は守るんだって、この際見せつけてやろうじゃないか。
 
 それでも、号砲を鳴らす準備をしている兵士や水夫たちの慌ただしい声や足音が聞こえると、あともう一度だけ、長崎の町を眺めておこうという気になった。

 上甲板に出ると、強い風が吹きつけてきた。

 こんな天候でもヤパンの細長い舟はたくさん海に出ていて、僕たちとの別れを惜しんでくれている。
 僕もこの一年で見分けられるようになった。徳川家の葵の御紋を掲げているのが奉行所の舟で、杏葉紋を掲げてるのは長崎警備についている佐賀藩鍋島家の舟だ。
 
 多くの侍や商人たちが、水面近くで手を振っていた。彼らのうち何艘かは、オランダ船が野母崎の遠見番所の前を通過し、湾を出るまで見送ってくれるんだ。
 
 いつものこととして眺めてた僕だったけど、ふとその中の一艘に目が止まった。
 
 木の葉のように揺れる小さな舟。そしてそこに乗っている三人を見て、僕は息を飲んだ。
 それは船頭とケースケ、寝たきりになってるはずのミカワだった。三人とも必死にこっちを見上げて、僕のことを探しているんだよ。

「ミカワ! そんな、無茶な!」
 僕は人垣をかき分け舷側まで出て、腕がちぎれそうなほど手を振って叫んだ。

「おーい、こっちだ! こっちだ!」
 ケースケが気づいたらしく、こちらを指差して何か言っているのが見えた。舟はすぐに、僕のいる方へと漕ぎ寄せてきたよ。

 ミカワが登ってこられるはずはないから、僕は水夫たちに頼んで縄梯子を下ろしてもらった。風に煽られて梯子は大揺れしていたけど、元水夫の僕はこの程度のことには慣れている。何とか体勢を保って降りていったよ。

 揺れる舟に飛び乗ると同時に、ミカワがわっと泣いて、抱きついてきた。
 僕は船べりを押さえ、何とか転落せずに抱きとめた。ミカワの腹は最後に会ったときよりもさらに大きくなり、今や二つになった鼓動が着物を通してでも感じられるようだった。

「体は、大丈夫か」
 オランダ語でそう聞くと、ミカワは僕の胸に顔を埋めたまま何度も何度もうなずいた。
 ケースケは抱き合って震える僕たちから目をそらし、もはや何一つ通訳しようとはしなかった。

「一年、たった一年の辛抱だ。必ず子供の顔を見に来るからな」
 激しい海風にさらされて、今はどれほどの愛の言葉も波の彼方へ飛んでいってしまいそうだった。
 だから今、僕は金のことだけ言おう。
「海に三角形を描けば、五十ギルダーなんてすぐだ。あと五十、必ず持ってくる」
 そう。金というのは何より確実なものだった。何より誠実でもあるものだった。だから愛はそこに託したっていいんだ。

 非情なもんだよな。頭上で号砲が鳴り、早く本船に戻れという船員の声が降ってきた。
 僕は身を斬る思いでミカワを手放したよ。

 彼女の切り裂くような泣き声が背後に聞こえたけど、僕はもう振り返らなかった。そして、巨大な船の脇を登っていったんだ。

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