第3話 出航

文字数 1,780文字

 いよいよ出航の時が迫ってきた。
 
 吹雪が落ち着いてきたからか、これから「お客様」の乗船が始まるそうだ。僕らは上甲板にびしっと整列して、敬礼して出迎える。
 やれやれだよ。同じVOCの社員でも上級商務員っていうのはいいご身分だよな。やっぱりレヘントの関係者が多いからだろう。彼らは比較的揺れの少ない船尾に個室を与えられてる。良い食事を取り、航海中もやりたい放題だ。
 
 お?
 何だかきれいな女が船に乗り込むぞ。

 いったい誰の愛人なんだろう。あんなに着飾ってさ。これからきつい航海だって分かってんのかな。
 あ〜あ、お偉いさんのすることだ。誰も文句は言えない。でも見てろ、いつか僕だって……。

「おい、見るな、ウィレム」
 同じ班のヤンがうつむいたまま、横から小突いてきた。
「船尾の方を見ただけで鞭打ちだってさ。疑われるような真似はするな」

 うるせえな。分かってるよ。船尾客室には近づかないのが一番。
 だけど一回ぐらいは、ああいうご身分になってみたいもんだなあ。

 さて、と僕は小さく舌打ちする。
 始まったな。
 床の下から、地獄のうめき声のような歌が響いてくる。

 ギシギシっていうきしみ音も船中に響いてる。あれは錨綱(いかりづな)の巻き上げ装置キャプスタンの音だ。それはもう巨大な装置で、その柱は船の全階層を貫いてる。
 下っ端の乗組員は全員、各階に分かれて押し棒を回すんだけど、そのとき調子を揃えるためにあの舟歌を歌うんだ。そのぐらいしないと、重たい錨は上がらないってわけだ。
 
 そんなわけで、出航は大仕事。港に見送りに来た人たちに手を振れるのは、やっぱりお偉いさんの特権だ。ま、どうせ下っ端の奴らには見送りなんてないけどさ。

 それに上甲板の水夫たちには別の仕事があるんだ。
「持ち場につけ!」
 掌帆(しょうはん)長が叫ぶと同時に、僕らは猛然と走り出す。向かうのは三本の帆柱のいずれか。ここから水夫たちは、目もくらむ高さへと上がっていくんだ。
 
 あ、やっぱり縄ばしごが凍ってる! 真っ白で、ガチガチじゃないか。
 でも登れないとは言えない。

 滑らないように、それでいて素早く駆け上がれ!
 まずは檣楼(しょうろう)だ。見張りや射撃でも使う所で、偉い人は踏板の内側の穴から上がる。水夫は危険を冒して外側から上がることになってるけど、怖くてどうしてもできない奴は内側から上がることも許されてる。だからあの穴、「臆病口(おくびょうぐち)」って呼ばれてるんだよ。

 僕とヤンはもちろん、外側からでも平気だ。ひらりと飛び乗ると、さらにシュラウド(づな)を延々とよじ登り、持ち場の帆桁(ほげた)にたどり着く。ここからは足掛け用の綱に体重を預けて、みんな横へ横へと広がっていくんだ。

 命綱? そんなものあるわけないだろ。
 


 僕の持ち場は、船で最も高いグロート・マストの、さらに一番高いトゲルン・ヤードだ。
 こう見えて僕、かなり敏捷な方でね。地獄の訓練のお陰で転落が怖いとも思わなくなった。
 
 ここまで来ると、もう掌帆長の声は遠すぎて届かない。仲間たちが下から順繰りに命令を伝えてくる手はずになってるよ。
 
 船尾甲板にいよいよ船長が立ったらしい。すぐ下のイザークが叫んできた。
展帆(てんぱん)!」

 よっしゃ、帆を縛っていたガスケット縄を、外側から順に解いていくぞ。ここで順序を間違えちゃダメだ。風をはらんだ巨大な帆に振り落とされちゃうからな。
 
 解き終えて合図を送ると、今度は上甲板に残った水夫たちが、声を揃えて縄を引いていく。こうして高い帆桁にもたれかかってると、自分の船より他の船の姿がよく見える。
 
 ほら見て。白く巨大な帆が、ゆっくりと羽根を広げていくよ。

「美しいな。これこそ、海の貴婦人ってやつだ」
 ヤンが隣でやけに気取ったことを言ってるけど、確かにこの瞬間だけはすべてを忘れて息を飲むよ。何という高貴な白だろう。こんなみぞれ混じりの強風の中でも、帆は優雅な曲線を描いて立ち上がるんだ。
 
 腹の底に響くように、号砲がこだました。
 僕らの乗ってるのが、旗艦マールテン号。他の三隻と合わせて全部で四隻の船団を組んでる。どの船も、マストの先端に三色のオランダ国旗とVOCの社旗が翻ってるよ。

 二度と戻って来られないかもしれないオランダの町並みを、僕は黙って見つめた。
 港がぐんぐん遠ざかり、不安は否応なしに増していく。

 いいさ。何の未練もありはしない。このろくでもない、悪魔の国め!

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