第38話 届けに来ました
文字数 1,913文字
「お受け取り下さい。約束の五十ギルダーと、それからあなた宛ての手紙です」
自己紹介を終えるとすぐに、私は巾着袋と手紙を卓上に置き、娘の方へすっと押し出しました。
生前のウィレムから話は聞いておりましたし、万一に備え、あいつとは前回と同じように遺言書を取り交わしてあったんです。今、私はそれに従って行動しています。
でも向かいに座る娘は硬直したまま反応もせず、金を受け取ろうとしませんでした。気まずい沈黙が続くのみ。どうしたものかと、私は隣にいるナムラ氏に視線を送ります。
彼は通訳を中断し、自分の言葉を寄越してきました。
「ロドルフ・オルストールンさんとおっしゃいましたね?」
ゆっくりと私はうなずきます。
「ええ。そうです。ウィレムの友達です」
友達、と呼んでもいいんだよな? と心の中であいつに問い返します。
目の前の日本人は明らかに身分が高く、落ち着いた物腰です。ウィレムはこの人物と、どんな会話をしていたんでしょうか。
ナムラ氏は手にしていた日本の筆記具をいったん卓上に置き、すっと姿勢をあらためました。
「……何と感謝を申し上げて良いか。まさかご友人が届けに来てくださるとは、思いも寄りませんでした」
そう言って丁重に頭を下げるものだから、反応に困ってしまいます。
「当然のことですよ。遺品を売った金を遺族に届けるのは、船乗りの伝統ですから」
いや、本当のことを言うと、私はこんな重たい役、気が進まなかったんですよ。あいつの遺志は尊重しますが、何が何でも言われた通りにしようと思ったわけじゃありません。たまたま自分に日本行きの辞令が出たから、ついでに持ってきた、というぐらいが正しいでしょう。
ここは出島商館の敷地内にある通詞部屋という所だそうで、草で編んだ柔らかい床の上に敷物が広げられ、そこに長卓、椅子が置かれています。
本当は私的な会合に使える部屋ではないようですが、出島乙名 の同席なしに話ができる場所となると、ここしかないとのこと。何でも大通詞のイシバシ氏という方が、ナムラ氏の話に理解を示し、特別に許可して下さったという話でした。
私は開かれた大きな窓に目をやりました。
ああ、これが日本の夏なんですね。バタヴィアに劣らず蒸し暑い国のようですが、外からは気持ちの良い風が入ってきます。
ナムラ氏が隣の娘を叱責し、執拗に何かをうながしています。私の行動に対し、お礼の言葉を強要しているようでした。
慌てて、割って入ります。
「いいんですよ、ナムラさん。彼女は何も言えないでしょう。分かっていますから」
ナムラ氏は恐縮し、深々と頭を下げてきます。
「お気遣い、痛み入ります」
しかし、なかなか重たい空気です。長く話していても、つらくなるばかりでしょう。だったらむしろ、早く済ませてしまいたいと思いました。
「……市場の裏手だったんです。事件の現場は」
可能な限り淡々と、私はそう切り出しました。
そう、今日ここへ来たのは、これを話すためだったのです。
ですが向かいの彼らの姿は見るに忍びなくて、私は思わず目を反らしてしまいます。咳払いをしてからじゃないと、とても次の言葉は出てきませんでした。
「……私もその場にはいなかったんです。だから、ほとんどが後から聞いた話ですよ」
そう前置きして、事件の概要を話しました。
植民地のとある港の近くに、魚をさばく作業場があり、いつも奴隷の集団が働いています。その日、そこで一人の女が乱暴されかかっていたそうです。治安の悪い地区では、そういうことは特に珍しくありません。
ですが、たまたま近くを通りかかったウィレムはそれを無視できず、止めようと割って入ったそうです。
あいつは、刃物を持った一人の奴隷に刺されてしまいました。
ため息が出ます。せっかくここまで荒海を乗り越え、病気の困難に打ち勝ってきたというのに、つまらぬ理由で命を落とす。そんなことがあって良いものでしょうか。
でも誰が彼の行動を責められるでしょう。私だってとっさに同じことをしたかもしれません。いざという時、まさかと思うようなことをするのが人間だとも思うのです。
最後まで落ち着いて話そうと思っていたのに、実際私の声はかなり震えてしまいました。
「……大騒ぎになっている現場に私が駆けつけた時、ウィレムの息はすでにありませんでした。こんなことになるなんて、いまだに信じられません。悔しいです。我々が死ぬ時は、たぶん熱帯病だろうと思っていましたから」
ナムラ氏も彼の冥福を祈ってくれたんでしょう。目を閉じ、頭を下げてくれました。
でも娘の方はそうじゃなかったんです。
不穏な様子で、突然、がたんと椅子から立ち上がりました。
自己紹介を終えるとすぐに、私は巾着袋と手紙を卓上に置き、娘の方へすっと押し出しました。
生前のウィレムから話は聞いておりましたし、万一に備え、あいつとは前回と同じように遺言書を取り交わしてあったんです。今、私はそれに従って行動しています。
でも向かいに座る娘は硬直したまま反応もせず、金を受け取ろうとしませんでした。気まずい沈黙が続くのみ。どうしたものかと、私は隣にいるナムラ氏に視線を送ります。
彼は通訳を中断し、自分の言葉を寄越してきました。
「ロドルフ・オルストールンさんとおっしゃいましたね?」
ゆっくりと私はうなずきます。
「ええ。そうです。ウィレムの友達です」
友達、と呼んでもいいんだよな? と心の中であいつに問い返します。
目の前の日本人は明らかに身分が高く、落ち着いた物腰です。ウィレムはこの人物と、どんな会話をしていたんでしょうか。
ナムラ氏は手にしていた日本の筆記具をいったん卓上に置き、すっと姿勢をあらためました。
「……何と感謝を申し上げて良いか。まさかご友人が届けに来てくださるとは、思いも寄りませんでした」
そう言って丁重に頭を下げるものだから、反応に困ってしまいます。
「当然のことですよ。遺品を売った金を遺族に届けるのは、船乗りの伝統ですから」
いや、本当のことを言うと、私はこんな重たい役、気が進まなかったんですよ。あいつの遺志は尊重しますが、何が何でも言われた通りにしようと思ったわけじゃありません。たまたま自分に日本行きの辞令が出たから、ついでに持ってきた、というぐらいが正しいでしょう。
ここは出島商館の敷地内にある通詞部屋という所だそうで、草で編んだ柔らかい床の上に敷物が広げられ、そこに長卓、椅子が置かれています。
本当は私的な会合に使える部屋ではないようですが、出島
私は開かれた大きな窓に目をやりました。
ああ、これが日本の夏なんですね。バタヴィアに劣らず蒸し暑い国のようですが、外からは気持ちの良い風が入ってきます。
ナムラ氏が隣の娘を叱責し、執拗に何かをうながしています。私の行動に対し、お礼の言葉を強要しているようでした。
慌てて、割って入ります。
「いいんですよ、ナムラさん。彼女は何も言えないでしょう。分かっていますから」
ナムラ氏は恐縮し、深々と頭を下げてきます。
「お気遣い、痛み入ります」
しかし、なかなか重たい空気です。長く話していても、つらくなるばかりでしょう。だったらむしろ、早く済ませてしまいたいと思いました。
「……市場の裏手だったんです。事件の現場は」
可能な限り淡々と、私はそう切り出しました。
そう、今日ここへ来たのは、これを話すためだったのです。
ですが向かいの彼らの姿は見るに忍びなくて、私は思わず目を反らしてしまいます。咳払いをしてからじゃないと、とても次の言葉は出てきませんでした。
「……私もその場にはいなかったんです。だから、ほとんどが後から聞いた話ですよ」
そう前置きして、事件の概要を話しました。
植民地のとある港の近くに、魚をさばく作業場があり、いつも奴隷の集団が働いています。その日、そこで一人の女が乱暴されかかっていたそうです。治安の悪い地区では、そういうことは特に珍しくありません。
ですが、たまたま近くを通りかかったウィレムはそれを無視できず、止めようと割って入ったそうです。
あいつは、刃物を持った一人の奴隷に刺されてしまいました。
ため息が出ます。せっかくここまで荒海を乗り越え、病気の困難に打ち勝ってきたというのに、つまらぬ理由で命を落とす。そんなことがあって良いものでしょうか。
でも誰が彼の行動を責められるでしょう。私だってとっさに同じことをしたかもしれません。いざという時、まさかと思うようなことをするのが人間だとも思うのです。
最後まで落ち着いて話そうと思っていたのに、実際私の声はかなり震えてしまいました。
「……大騒ぎになっている現場に私が駆けつけた時、ウィレムの息はすでにありませんでした。こんなことになるなんて、いまだに信じられません。悔しいです。我々が死ぬ時は、たぶん熱帯病だろうと思っていましたから」
ナムラ氏も彼の冥福を祈ってくれたんでしょう。目を閉じ、頭を下げてくれました。
でも娘の方はそうじゃなかったんです。
不穏な様子で、突然、がたんと椅子から立ち上がりました。