第63話

文字数 1,307文字

河原の土手で昏れなずむ街を眺めているマリーのアッシュにした長い髪にはピンクと紫のテンセルが編み込んであった。

小さな頃、マリーはGODIVAのプラスチックの空き箱に大切な宝物であるママがくれたリングやリボン、おもちゃの鍵、香水の小瓶、つけまつげ、抜けた糸切り歯が入れてあった事を思い出した。

そういえばマリーは小さな頃からひとり遊びが好きだった。遠く霞んでみえるユングフラウがいつもマリーのことを見ていてくれているようで、ひとりぼっちでもさみしくはないのだった。ユングフラウが日本から見えるわけもないけれど、マリーには見える気がするのだ。


ある日、マリーに小包が届いた。お父さんからだった。お父さんは、毎年稲刈りが終わると都会の街に出稼ぎにいくのが常だった。マリーがお父さんはなんていう街で働いているのと訊くとお父さんは、きまって東京みたいなすごい都会の街だよ、と教えてはくれるのだけれど、東京みたいな、という言い回しが曲者で、どうやら東京ではないらしかった。

マリーもそれ以上は根掘り葉掘り詮索しなかった。何か言いたくはない理由があるのかもしれない。お父さんは大人なのだ。大人の事情なんてマリーにわかるわけもない、そう思っていた。

だが、そんなマリーももう成人した。

お父さんは出稼ぎで、家族を養ってくれたことは確かなことだったし、マリーも大学に進学できた。そして、そのお陰で念願だった教師にもなれた。

だが、今になってわかったことだが、お父さんの言っていた、東京みたいな都会の街というのは、大阪だったらしい。そして、そこでお父さんは、マリーのまったく知らない女の人とずっと一緒に暮らしていたらしい。

つまり、お父さんは一年のうちの半分はマリーたち家族を裏切って見知らぬ若い大阪妻と仲睦まじくいそいそと暮らしていたのだ。

マリーにはわからなかった。あんなに優しく誠実なお父さんが、二重生活を何年も続けていて、私たちにも、そして大阪の女の人にも毎日笑顔を見せていたなんて。

とても信じられないし、マリーにはとても理解できそうにはなかった。お父さんは、良心の呵責など一片たりともなかったんだろうか。

そして、お父さんは、わたしたちを騙し続けていったい何を得たのだろう。或いは、とマリーは思う。理解は出来ないけれども二重生活は、お父さんにとって、絶対的になくてはならないものだったのかもしれない。

お父さんは、その大阪の愛の巣で死んだ。何の前触れもなく突然倒れたらしい。お葬式はむろん、マリーの母が喪主で東京で行なわれた。そこにはさすがにお父さんの愛人は現れなかった。

もう亡くなってしまったのだから、愛人に対して怨みつらみもないと母は言っていた。

火葬場に彼女はやって来た。泣き腫らした目で私たちに深々と頭を下げた。痛ましいほどやつれていたので、同い年くらいに見えたけれど、たぶん、マリーよりも全然若い子だった。


お父さんは、愛するマリーたちを残して逝ってしまった。

あちらの女性には子どもはできなかったらしい。

マリーには父に溺愛されていたという自負があったけれど、私より年下の彼女こそがいちばん父に溺愛されていたのかもしれないと、マリーは思った。
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