第92話

文字数 1,328文字

だいぶ以前の話になるが、俺は湯気が立つほど生々しい浮気現場のラブホの前で出待ちされ、その場で土下座させられたこともある

俺は平蜘蛛の如く額を舗道にこすりつけ平謝りしたが、それでもなお誘惑に勝てる自信など毛頭なかった

またぞろ可愛い女子が目の前に現われたならば制御不能になることは火を見るよりも明らかだ

悲しい哉俺は、畢生目の前に吊り下げられたニンジンをめがけ馬車馬の如く走る種馬なのであり、とりあえずこの修羅場さえ乗り越えてしまえばなんとかなる、などと露ほども考えていなかった

ただしかし
とにかくひたすら謝りはするのだが、浮気は絶対していないとあくまでもいい張り、それを突き通すのだ

たとえ見知らぬ女の股ぐらに顔を突っ込んでいるその場であってさえも、知らぬ存ぜぬ、目の前で起こっていることは幻だとどこまでも不貞行為を否定する

不貞を認めてしまえば、確定してしまう、当の本人が穢らわしい不貞行為などここには一切ないと、どこまでも否定すれば、浮気は確定されはしない

当事者である本人が、おぞましい不貞行為などまったくなかったというのだから確かなのである

それは、一般的にはウソをついていると云われる

現にアナタは今、この見知らぬ若い女とベンチに座り、手を繋いでむさぼるようにキスを交わしていたではないか、と詰問されても、

幻を見たんだろう、たまたま超常現象がこの場で起こったに過ぎない、そう言い張りさえすれば疑惑は消えないが、とりあえず浮気は確定しない

キミを傷つけてしまうような薄汚い幻を見せてしまったのはひとえに自分のせいなので、それは幾重にも謝ります、申し訳ありませんでした、このような幻影を生み出さないよう以後気をつけます

え? じゃなに、脱兎の如く逃げていったあの若い綺麗な女は、すべてアナタが生み出した幻想とでもいうわけなの? 呆れた、バカもやすみやすみ言ってよ

いや、冗談でもなんでもない、それが事実なのだから仕方ないよ、フィリップ・K・ディックの『ユービック』という小説の中に幻想を見させる能力を持つ人物が出てくるんだけれど、まさか自分もそんな能力の持ち主だったとは、お釈迦様でも知らぬメェってやつ?

とんでもない言い訳だが、恋人も実は浮気を否定してほしいのだ

眼前でキスされたならば、浮気はあまりにも明白だが、それでも浮気はしていないと否定するメンタル

馬鹿正直にすべてを晒せばいいというものでもない

そんな俺だが、時折り雷に打たれたように異質な記憶が蘇ることがある

ボルビスという名の女

そう、オレには女だった時の記憶が朧げながらある

何かの拍子にその時の映像がフラッシュバックする

地下鉄の車輌に乗り込むとき、灼熱の太陽に炙られながら焼けたフライパンみたいなアスファルトの向こうに揺れる陽炎を見たとき、高層ビルのエレベーターに乗り、一気に上昇していくとき

何がきっかけになるかはよくわからないがボルビスだった頃の焼け爛れたような記憶が蘇る

そして、その映像とは別に妊娠していたという肉体の記憶が疼くようにある

それは脳が映像として記憶しているのではなく、もっと根源的で感覚的なものだった

父親である相手の男の顔などまったく思い出せない

子宮が疼くような感覚

断末魔の夏の軋むような声が聞こえる
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