第44話  吾輩と夏の災難 30

文字数 2,511文字

 家に着いて車を降りると、猫和尚は猫達の名前を呼んだ。だが、猫は一匹たりとも出てこなかった。
 和尚は裏道を辿ると花の寺へ向かった。後ろからハナ子が付いて来る。
 花の寺への参道を覗いてみる。中は真っ暗だった。
「おかしいな。猫達はどこへ行ってしまったのだ?」
 猫和尚は首を傾げた。入り口のスイッチを入れて隧道の中を歩く。猫羅漢の姿が揺れる。
 いつもと変わらない参道である。
 猫和尚はお堂の中の黒塗りの箱を開けてみた。
 そこには頭の真ん中に一本の角を生やした黒猫が顔を前足に埋めて眠っていたのであった。

 猫和尚は口を開けたままそれを見詰めた。
「ああ。信じられない。本当に角が生えている。水鏡の言った通りだ。そしてあの穴に入った猫達が言った通りの……あの掛け軸にあった通りの……」
 そこまで言って猫和尚は「うん?」と首を傾げた。
「あの絵の猫とちょっと違う様な……。だが、俺はあの絵を一度しか見ていないからよく覚えていないだけなのかも知れん……。しかし、水鏡の奴、あの絵を持って行ってしまうとは、何とけしからん奴だ」
 猫和尚はそう呟くと両手を合わせた。
 そして恐る恐る眠る猫に手を伸ばして触れてみた。不思議な事に猫は温かかった。
 猫和尚は首を傾げた。
「やはり生きておるのであろうか……。まあ、あの穴から歩いて来たのだから生きていても不思議ではないわな。しかしそうなると、この猫は二百年以上生きていると言う事になる。うーむ。世の中の理をこうも易々と踏み越える事が実際にあるとは、いや、流石にご本尊と言われるだけの」
「ごちゃごちゃと五月蠅いのお」
 眠っていた猫が口を開いた。
 猫和尚はびくりとして慌ててその場にひれ伏した。
 額を地面に擦り付ける。
「ご本尊殿。漸くのお帰り。まことに有難い事で御座います。(それがし)は……」
「知っておる。猫和尚であろう。吾に会いに来た猫達がそう申しておった」
「そ、そうで御座いますか。成程。猫達が。……で、ご本尊殿。その猫達は今一体どこへ?」
「……」
「ま、まさか、あなた様が全部食べてしまったなどと」
「……」
「いや、それならそれでも構いませぬが。何しろ200年も眠っておられたのだから、腹が空くのも当然の事で御座います」
 顔を伏せていた猫はむくりと起き上がった。そしてその深い碧色の目で猫和尚を見詰めた。

「猫和尚。其方は一体何匹の猫を攫って来たのだ?」
「何匹? それは覚えておりませぬ。しかし、きっとかなりの数になりますな。千、いや、二千、万でしょうか? でも某はちゃんと猫達の面倒を見て死ねば墓に埋めて弔いました」
「……」
「いや、だからちゃんと餌を与えて」
「猫和尚。其方は連れて来た猫達の仕事が終えたら、家に帰そうとは思わなんだか?」
 鬼猫はそう聞いた。
「家に? それは考えませんでした。何しろ、家に帰す手間があるなら一刻も早く次の猫を連れて来て、ご本尊様を説得せねばと、それだけで御座いましたから……」
 猫和尚の言葉を聞いて鬼猫はため息を付いた。
「其方ばかりが悪いのでは無い。勿論、自分の事に(かま)けて『外』を放置しておった吾にも非がある。まさかそんな事になっておったとは……」
「はて? そんな事とは?」
「猫和尚よ。吾は瘦せ衰えて病気になってしまった猫達の病を治した。そして元通りの元気な姿に戻してそれぞれの家に送り届けた。神通力でのう。殆どの猫が各々の家で温かく迎え入れられた。だがのう……帰る家の無い猫もおったのじゃ。飼い主が引っ越してしまった家や、飼い主が老齢でもう亡くなってしまった家など」

「一匹の猫が言っておった。飼い主と二人暮らしでまるで自分の子供の様に可愛がってくれたと。だが、そのご高齢のご婦人は亡くなられた。最後は自分を探しながらたった一人で寂しく亡くなられたのだろうと。その猫は涙ながらにそう申しておった。それを思うと胸が痛む。其方は『時間』を奪ったのじゃ。猫と飼い主の平和で幸せな時間をのう」
 鬼猫はしみじみと言った。
「はっ(笑)。高々猫でござる。何の知恵も無い畜生の命」
 猫和尚は皮肉な笑みを浮かべた。
「猫などと言う下等な動物に拠り所を求める弱い人間が悪いのでござる。人は自分の外に拠り所を求めてはなりませぬ。全ては己の中に」
「……」
「その様な事を申されるなら、何故あなた様は御隠れになられた? 御隠れになられたあなた様の罪は?」
 猫和尚はじろりと鬼猫を見る。
「くどいの。さっき告げたであろう。吾も非があると。だから猫達を戻した。其方の代わりに。……ああ。隠れた訳か? そんな事を何故吾が其方に説明をせねばならぬのだ? 高々人間風情に」
 猫和尚は口を開けて鬼猫を見詰めていた。
 たっぷり3分間は眺めていた。

猫和尚は涙を流した。
「ああ。情けない。情けない。何と情けない。その様なお言葉を聞くために某は二百年間もこの寺におったのか? 孤独に耐え、貧乏に耐え、屈辱に耐え、低能な人間共に憑依し、一筋に弟、水鏡の為を思い」
「水鏡の為を思うなら、もう終わりじゃ。吾は戻った。さあ、もうサクサクと黄泉の国へ旅立たれよ」
 猫和尚は口をへの字にして鬼猫を眺めた。
「……いや、駄目だ。それ以上に大切な事がある。猫畜生の命よりも、そのお涙頂戴の安っぽい『時間』よりも大切な事が……。この世で一番大切な事だ。究極の知恵だ。悟りを得た者しか知らない。その知恵を手に入れるのだ。その為に人は努力を、そうだ。俺はずっと努力を」
 猫和尚の言葉は熱を帯びて来る。
「ああ。俺はずっとそれを求めて辛い旅を、それこそ本当の涙を流す様な辛い旅を」
 猫和尚は拳を握り目に涙を貯めた。
「ひとえに普賢菩薩様にお会いするために」
 ふわああと欠伸の声がした。
 猫和尚は目を見張った。鬼猫がかったるそうに伸びをした。
「そんなのは知らねーよ。猫和尚。あんた、うざ過ぎだ。あんたの説教よりもあのちびトラの話の方がずっと為になるぜ」
 鬼猫は言った。
「クロサキ!!」
 猫和尚は叫んだ。
「おうよ」
クロサキは返事をした。その美しい二つの眼は青く鋭く光る。黒い毛皮は艶々として、その体は滑らかに動く。
「何でおまえに角が生えているんだ!!」
猫和尚は怒鳴った。

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