第43話   吾輩と夏の災難 29

文字数 841文字

 車は湖の中の一本道に差し掛かった。
 道の中程で車を停めると猫和尚はじっと湖を見詰める。
 たっぷりとした水がひたひたと道に打ち寄せていた。
 猫和尚は車を降りると一言「猫婆」と呼んだ。そして猫婆の返事を待った。だが、いつまで待っても返事は無く、静かな湖面がさらさらと音を立てているだけだった。猫和尚は遠く広がる湖を眺めた。ここは水の世界だ。それを東西に分断して走る真っ直ぐな道。
 寧ろこの道の方が異常なのではないのか?
 猫和尚は今更ながらにそう思った。
 どうしてこんな湖の真ん中に道があるのだ? と。
 一体誰が何のために作ったのかと。
 そして同時にここは何て寂しい場所なのだろうと思った。
 ここが黄泉への入り口と言うのは、まさにその通りだと、また今更ながらに感じた。

 猫和尚は車に乗るとじっと考えた。
 さっきまでの激しい感情の揺れはすっかり鳴りを静め、猫和尚の心はこの広い湖の様な静かな心持ちに変わっていた。

 ご本尊が戻られたから、だから猫婆はもうお役御免になったのだ。同時に俺ももうお役御免なのだ。これでもう弟、水鏡(すいきょう)への義理は果たしたことになるのだから。
だから次は俺の、炎鏡(えんきょう)の、(……ああ、懐かしい名前だ。余りに長い時間が過ぎたから、自分の名前さえ忘れて仕舞う所だった)一僧侶としての求道を完遂しなくてはならない。俺は必ず普賢菩薩様にお会いして悟りを得るのだ。もう少しだ。もう少しの辛抱だ。

 ご本尊のお名前は……そうだ。確か「山吹殿」と。水鏡がそう申しておった。
「山吹」か……。そう言えば、あの辺りの山には初夏になると山吹の黄色い花が沢山咲いていたな。
 猫和尚はそんな事をぼんやりと考えた。
湖に目をやると「良かったな。猫婆。ご本尊が戻られて。ご苦労様。ゆっくり休んでくれ。
 ……猫婆。あんたには世話になったな。あんたは俺のたった一人の友達だったよ」と呟いた。
そして車を発進させた。
 隣でハナ子が「にゃーお」と鳴いて猫和尚の腕に頭を擦り付けた。猫和尚は前を見たままハナ子の頭を撫でた。
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