第9話  吾輩と見えない何か3

文字数 1,096文字

  次の朝、朝食を準備している奥様に旦那様が言った。
「昨夜、コーヒーの瓶が動いたんだけれど・・・。いや、和樹も見ていた。こうすーと動いたんだよ」
 奥様は返した。
「あら、嫌だ。きっと私が斎場でもらった花に憑いて来たんだわ」
「花?」
「そう。くれたのよね。向こうの職員の方が。綺麗な花だから是非持って帰ってくださいって。それで包んでくれたの。・・・言われるがままみんなで分けて貰って来たのだけれど・・・」
奥様はそう言った。
「やっぱりそんなの貰って来ちゃ駄目ね。分かりました。処分して置くから」
奥様はそう言った。
旦那様は出掛けに玄関先の百合の花を見て、そして「行って来ます」と言って出て行った。

奥様は玄関に飾って置いた百合の花を新聞紙に包むとそれをゴミ箱に入れた。
そしてリビングの窓を大きく開けて言った。
「さあ。ここから出て行きなさい。外は明るくていい天気よ。どうぞ。出て行ってください。もうあなたは自由なの。自由に空を飛べるわ」
奥様は窓を開けたまま暫く待っていた。

吾輩も窓を見ていた。
それは窓から出て行った。
きっと奥様も出て行ったと感じたのだろう。
奥様は窓を閉めた。

和樹がやって来て旦那様と同じ話をした。
奥様は「さっき窓を開けて出て行ってくださいと頼んだのよ」と言った。
「もう行ったと思う。ねえ。トラ」と付け加えた。
吾輩は首を傾げた。

昨夜、部屋の片隅にいたそれは動く事も無くそこにいた。
吾輩と母はそれを一晩中見張っていた。
(一晩中と言うのは、吾輩の主観であって、本当にそうだったかは甚だ疑わしいのだが。なんせ猫だから。だが、ふと目覚めるとそれはそこにいた。・・・おや?それはある意味、向こうがこちらを見張っていたという事にもなるのにゃろうか?)

 それはまるで影みたいな存在だった。
何もしゃべらない。ただそこに在る。と言う風な。
母親はそいつを見張る事に飽きてしまって、自分のベッドにのそのそと歩いて行くところりと丸くなった。吾輩はそこに丸くなると、じっとそれを見詰めた。
何かしゃべるかも知れない。
吾輩はそれと話をしてみたかった。
「こんばんは」とか。
「あなたは何者ですか?」

それは言葉を返すかも知れない。
「お邪魔してます」とか。
「迷子になりました」などと。
だが、一方でこのような者と言葉を交わしては駄目だという気もしていた。

朝になって奥様が起きて来た。
奥様はそれに気が付かなかった。

夜になって帰って来た旦那様はちらりと玄関の花瓶に目をやる。
百合はもう無い。
奥様は言った。
「もう出て行ったから、大丈夫」
旦那様は返した。
「そう。良かった」

それ以来その話が出る事は無い。
吾輩は不思議な事もあるものだと思った。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み