第14話  吾輩と『竹里館』 4

文字数 2,759文字

7月中旬 夏

わざわざ「夏」と書かなくても「夏」は当然である。
そして今年は「長梅雨」で、まだ、梅雨は明けない。
毎日毎日しとしとと陰気な雨が降っていた。
だが、しかし、今朝は明るい青空が広がった。数日振りの上天気である。
日中は暑くなるのだろう。

吾輩はブロック塀の上に佇み、道を行く人々の群れを眺めていた。
朝の出勤風景である。
人々は無表情に通り過ぎて行く。
「にゃ?」
向こうから来るのはあの三文作家ではないか。

三文作家は白いワイシャツに紺のパンツを着ていた。上着は片手に掛けてある。
黒いリュックを背負ってさっさと歩く。
先頃とは打って変わったきりりとした顔で道を行く。
ブロック塀の上の吾輩には気が付かなかったらしい。
彼はそのまま通り過ぎた。
吾輩はその後姿を眺めた。


吾輩はその後、若トラを訪ねて行った。
水を大量にしみ込ませた土はすっかり柔らかくなっていて、吾輩は足が汚れない様に落ちた竹の葉の上を歩いて三文作家の家に向かった。

たっぷりと天水を貰った木々達からは恐ろしい程のパワーを感じる。夏は彼らの季節だ。隙あらば、幾らでも増殖してやろうと思っている。
わっはっはと高笑いしながら勢力を伸ばし続ける植物達。どんなちっぽけな雑草であっても。
大気中にはどんどん酸素が増えて行く。
彼らは活発に光合成を行っている。
成長と増殖の為にエネルギーを蓄積しどんどん消費している。
彼等はまるで化学工場だ。
植物の強い気配が大気中に満ちる。その内、空気まで緑色になるのではないかと思う位である。
夏は動物よりも植物の方が強いのだ。


若トラは庭石の上で雀を狙っていた。
体を低くして揺らし、焦点を定めている。
吾輩はそれを見る。
狩りである。
若トラがぱっと雀に飛び掛かった。
雀は逃げた。
狩りは失敗である。
吾輩は笑った。
若トラは吾輩に気付いた。

吾輩は若トラに三文作家の事を尋ねた。
彼は答えた。
「うちの奥様が妊娠したんだ。ご主人はものすごく喜んで、それで、子供が産まれるのに、こんな事じゃ駄目だと言って、一発奮起してサラリーマンになった。ご主人は筆を折ったんだ。物語を捨てたのさ」
「にゃる程」
「まるで人が変わってしまった様に、現実的な男になった。てきぱきと動いて、2か月前までのあの姿は何だったのだと思う位だ。シャカリキに動いている。奥様もびっくりしているよ」
若トラはそう言って笑った。
その笑みが消えた。

彼は悲しそうに付け足した。
「・・・・それに、ここを売って奥様の御実家の方に引っ越すと言っていた。子育ての為に実家の近くの方が良いだろうと言って。・・・ここはマンションになるらしいよ」
吾輩は驚いた。
「そうなのですか?」
若トラは頷いた。
「オレも行くんだ。・・・・そこはずっと遠いんだ。だからオレはもう君に会えないと思う・・・」
父は言った。
吾輩は悲しかった。
我ら猫族は、この様にいつだって人間達の思惑に運命を左右されるのである。
まるで水に翻弄される落ち葉の様に・・・。

「俺は飛行機に乗るんだ。前にも乗ったことがある。あんな鉄の塊が空を飛ぶなんて信じられない。俺はそれが嫌で嫌で仕方がないんだ」
彼は情けの無い顔をした。
父はそれが一番の心配事らしかった。

父猫もいなくなるし、『竹里館』も無くなってしまうのか・・・。
吾輩は本当に寂しかった。


数日後、夕方近くに「竹里館」を訪れた。
又一郎氏にお別れの挨拶をしようと思ったのだ。

父猫とダベリながら又一郎氏を待った。
彼は必ず定時で帰ると父は言っていた。妻が心配で早く帰って来るらしい。

又一郎氏が帰宅した。
吾輩と若トラを見て、にこにこと笑って寄って来た。

「いや、トラ君。久し振りだね」
「にゃあ」
「又三郎と何を話しているんだい?」
「にゃにゃ」

三文作家はじっと吾輩を見詰めた。
そして首を傾げた。
「おかしいな・・。君の言葉が分からない。・・・前回は分かると思ったのに。君の言葉は只の鳴き声にしか聞こえない。・・・・ああ。それはきっと僕の意識が健全な証拠だ」
彼は頷いた。

「僕は自分の無意識に打ち勝った。良かった。まともになった。」
彼は嬉しそうだった。
「兎に角忙しくしていたからな。自分に考える暇を与えなかった。次から次に予定を入れて・・・。どっぷりと物語に浸かりたがる脳を違う事に追い立ててやった。・・・良かった。やっと物語は僕から去ったんだ」
三文作家は晴れ晴れとした表情で呟いた。

「僕は父親になるんだ。又三郎ですら父親になったのだから僕になれない事はない。僕はいい父親になる。働き者で、家族をしっかりと守って行ける、頼れる父親になるよ」

「トラ君。僕達一家は夏休みに引っ越しをするんだ。ここはもうマンションになる予定だ。・・・僕は子供の為に頑張る。ぼんやりしている場合じゃ無い。・・・それじゃ、失敬。僕には仕事があるからね。引っ越しの準備をしなくては。さようなら」
彼はそう言い残すと、さっさと家に入った。


その後ろ姿を二匹の猫は見送った。
父は言った。
「あれ、どう思う?ずっとあんな調子なんだ」
吾輩は首を傾げた。

物語は本当に彼から去ったのだろうか?

物語はきっと彼の魂の奥深く、無意識の中に隠れているのだ。
じっと息を潜めて。力を温存しているのだ。
そして彼がふと気を抜いた時、ふと、自分の人生に疑いを持った時、人生に倦怠を感じた時、
感傷(メランコリー)に陥った時、そんな時にこっそりと意識に手を伸ばす。ちょっとずつちょっとずつ、意識を侵食し始める。
そして頃合いを見計らって、ホストに襲い掛かるのだ。がぶりと。それは野放しにしてはいけない。何故なら破滅を齎すから。

吾輩は三文作家の幸せを祈った。
同時に彼の妻と近い将来に生まれる彼の子供の幸せを願った。
いつか、また彼に物語が襲い掛かっても、彼がそれを上手に制御できる様に。まるで猛獣使いが猛獣を操る様に、物語を宥め、押さえ、使役し、そしていつかはそれを自分の中で昇華させる。それを願った。
そうなれば、彼はもう最強の人格を手に入れる事になるだろう。
その時、物語はその原始のパワーを失うかも知れないが、彼の人格に深みと妙味を与え、彼はより豊かな人生を歩む事だろう。
吾輩はそれを願った。

いや、分からない。
彼はもしかしたら、凄い物語を書くかも知れない。万人の心に響く根源の物語を。
だが、きっとそれは長く苦しい茨の道だろう。

吾輩は父を見た。
父も吾輩を見た。

「父さんが彼に付いていてくれるから、彼は大丈夫です。吾輩は父さんがどこに行かれようといつでも父さんの幸せを願っております」
吾輩はそう言った。
父猫は目を細めて満足げに喉を鳴らした。



 夏が終わる頃、マンション工事が始まった。
小さな二階家はあっという間に取り壊された。
竹林は全て無残に引き抜かれ、地中深く網の様に張り巡らされた根も、それこそ「根こそぎ」撤去された。

「竹里館」はもう無い。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み