第35話  吾輩と夏の災難 21

文字数 2,999文字

「では、ここから帰らなかった猫達はあなたが食べてしまった訳ではにゃいのですね」
吾輩は言った。
「猫なんか食べるか。帰らなかった奴はこの先の道を行って分岐のどちらかを選んで無事に娑婆へ戻ったか、それとも黄泉の国へ行ってしまったかのどちらかだ」
頭に角を生やした黒猫は顔を伏せたままそう言った。
礼儀知らずの猫だにゃあと吾輩は思った。

「その道が黄泉の国に通じているか、それとも現世に通じているかそれは行ってみないと分から無い。だが、お前に道を選ぶ勇気はあるのか?」
彼は言った。
「戻ればいい。戻れば命は助かる」
吾輩は答えた。
「あんな状態で生きている猫達を見た事があなたにはありますかにゃ? あれでは生きているのか、死んでいるのか分からにゃい。永らえた折角の命をびくびくしながら劣悪な環境の中でただ単に償却しているだけなのです。吾輩はあんな所で猫和尚に怯えながら生きるのは嫌です。あの猫和尚にお前の耳とか尻尾とか首とかを大きな鋏でちょん切るぞと脅かされて、そうやって生きて行くのは吾輩は嫌です」

それまで顔を伏せていた猫は不意に顔を起こした。
吾輩はこんなに美しい黒猫を見たのは初めてだった。
黒猫の目は黄金色でそれは光の加減によっては深い碧にも青にも深紅にも見えた。

「何だって? 鋏でちょん切る? そんな事を言ったのか?」
「そうです。それに実際に耳の切れている猫もいました」
鬼猫はじっと考えた。
「そんな筈は無い。あの者は大変な臆病者でそんな事が出来るはずがない。それに心優しい者であったはずなのに」
「心優しい者がそんな事をしますかにゃ? 一度自分でお出ましになってその目で確認されるが宜しい」
吾輩は言った。
「何かに毒されてしまったのだろうか……。あの者が憑依している人間にでも。人間には猫を猫とも思わぬ酷薄な者がたくさんおるからのぉ……ん? 待てよ」
黒猫はそう言うとまたじっと考えた。
「……そうだ。そうだった。あの者は双子だったのだ。余りにも長い間、ここに隠れておったので失念しておった。では、お前の言うその『猫和尚』は兄の方だな。……ふむ。あの者ならばやり兼ねぬ。己の悟りの為には、猫や人を殺める事すら厭わぬ。そのような者に悟りなど永遠に……。そう言えば、あの弟の方はあれからどうなったのだろうか……」

そう言ってまた顔を伏せた。
「行かにゃいのですか?」
「……」
「行かにゃイのですか!!」
「行かぬ。私はその猫和尚には会いたくはない」
「ご本尊様は寺に戻るべきだと考えているのでしょう。彼は」
「あの場所にいようといまいと変わらないのだ。私は黄泉と娑婆の境にいるのだから。
ここに来る猫、来る猫、その都度言い聞かせているのだが、ちゃんと伝言は届いているのだろうか? 猫は忘れっぽいと言うけれど、誰も彼もがそんなに忘れてしまうのか? それとも皆がこの道を抜けると忘れてしまうのだろうか?」
「だったら、あなたが行って一言そう言ってくださいにゃ。あなたがここにそうやっている限り、猫の不当な受難は終わりませぬぞ」
「……」
この鬼猫、眠った振りをしてバックレる積りだにゃ。

吾輩は重ねて言った。
「じゃあ、身替りのご本尊でも何でも入れて置けばいい。兎に角、逃げていないであなたが行って、そしてちゃんと猫和尚と猫婆に二度と猫を狩らない様に言ってくにゃさい。一度でいいからそうしてくにゃさい。ちゃんと言い終えて、またここに戻ってくればいい」
「身替りのご本尊?」
「そうです。あの場所に並んでいる羅漢猫でも何でもいいじゃにゃいですか」
「身替りか……。それは考えていなかった」
黒猫は考え込む。
「成程。……。それはちょっと良い案かも知れぬな……」

吾輩のライトが暗くなって行く。これはいよいよ危ない。
「あーあ。ほら、ライトも消えてしまう。そうなったらここは真っ暗闇ですにゃ。もう、戻るも行くも手探り状態で、そうしたら吾輩はこの地の底みたいな寂しい場所で野垂れ死ぬばかりですにゃ」
吾輩はがっくりと項垂れた。
鬼猫はむくりと起き上がると座って吾輩を見て言った。
「なかなか賢い猫だ。子猫のくせに。……これは以前やって来たクロサキとか言う猫以上だな」
吾輩のライトが消えて一瞬全てが真っ暗闇になった。
「あっ!消えた!……ほらあ! どうしてくれんの? どうしてくれんの? うわーん」
吾輩は泣きながら訴えた。
その時、ふうっと風が吹いて何かが吾輩の背中のスイッチを入れて回路を切り替えた。予備のホタルライトが灯った。
吾輩は「ばっ」と後ろを振り返った。
誰もいなかった。
目の前の黒猫は面白そうに吾輩を見ている。
「だ、誰がスイッチを切り替えてくれたのですかにゃ? ま、まさか幽霊?」
黒猫ははははと笑った。
「今更何も怖くは無いだろう。私だって幽霊と似た様なものだ。さて、話は分かった。お前の言う通り少し様子を見に行かんとならんのう。あの猫和尚に会うのは気が進まぬが……ところで世の中はどの様な有様か? 確か異国の船が浦賀に参ったという話をちらりと耳にした事は覚えておるが……」
「それもどうぞご自分でお確かめください。吾輩はもう行きます。また電池切れになると困るので。この後の事は知りません。もしもあちらに行かれましたらあの辺りに屯している猫達の事を宜しくお願いしますにゃ。猫和尚をうんと懲らしめてくださいにゃ。クロサキさんにも吾輩が宜しくと言っておったとお伝えください」
そう言うと吾輩は道を歩き出した。
「ちと、待て。勇敢なトラよ。お前に『桃の実』を授けよう」
「モモ?」
「そうじゃ。あの黄泉平坂で伊弉諾の命が……」
「猫がモモを持って歩ける訳がにゃいでしょうが!!」
「小さな桃だ。背中に背負えば良い」
「気持ちだけで結構です!! これ以上の荷物は重くて無理です!! それに背負ったモモをどうやって投げるのですか! だったら化け物と出会わないで無事に家に帰れます様にと吾輩の為に祈っていてください。その方が何倍か有難いですにゃ!」
「相分かった。ではその様に」
そう言うと黒猫は近寄ってきて吾輩の頭にふわりと手を置いた。
その手は正しく人間の手だった。それが吾輩の頭を優しく撫でた。
「さあ。お前が無事に家に帰り着く様に祈った。腹も空かず、喉も渇く事無く、無事にここを抜け出る様にと。序に電池も切れる事が無い様にとちゃんと祈ったからな」
吾輩は手の主を見上げた。
それはまことに美しい青年だった。青年は膝を付き、身を屈めて吾輩の頭に手を置いている。長い黒髪が顔にさらりと流れ落ちた。その頭には小さな角が二つ付いていた。
青年はにこりと笑った。それは花の様な麗しい笑顔だった。
吾輩は我を忘れてその鬼に魅入った。
ぽけっと自分を見上げるトラ猫にその鬼は言った。
「後はお前が正しい道を選べば良い。是非現世への正しい道を選ぶ様に祈っておる。さらばじゃ。勇者よ。幸運を祈る」
鬼はそう言った。
吾輩は我に返ると「有難うごにゃいまする。ではこれにて失礼致します。先を急ぎますので」と頭を下げた。
暫く行って後ろを振り返る。黒い猫がまた道に丸まっているのが見えた。吾輩はため息を付いた。
何もかも無駄だったかもしれにゃいなと思った。
「絶対に行ってくださいよ!」と叫んだ。
「分かった。分かった。しつこいのお」
鬼の声が遠くから帰って来た。
暗闇の中を進む。
道が二手に分かれていた。
吾輩はしばし考えたが、左側の道を選んで歩き始めた。
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