第4話  吾輩と水彩画 1

文字数 2,212文字

 「るり子。何でそんな所で絵具を広げているの?自分の部屋でやりなさいよ」
キッチンから奥様の声が聞こえた。

「だって、私の机は狭いのだもの。ここなら全部広げられるし、それに水道だってすぐ近くにあるから」
小るりは絵筆を持ったまキッチンの方を向いて言った。
「どうして今頃家でやっているの?写生会で終わらなかったの?」
奥様はキッチンから出て来て小るりの絵を眺める。
暫し黙って眺める。
吾輩には奥様の気持ちがよく分かる。
どこか誉めてあげたいのだが、誉めるべき所が見当たらない。
小るりは奥様の顔を見上げる。

「これ、どこ?」
奥様は尋ねた。
「お城」
「ええっ?」
奥様は驚く。
「お城ってあの、城山公園のお城?天守閣の付いた?だって、これ、どこにもお城が無いじゃない」
「お城は難しいから横にあった、木と池と草を描いた」

吾輩は「杜甫」の『春望』を思い出す。

国破れて山河在り。
城春にして草木深し・・・。

草と空ばかりの廃墟。
城はきっと陥落してしまったのだ。

画面の下1/3は草と木が数本、それに池。
画面の2/3はのっぺりとした青空である。
立体感の欠片も無い。

奥様はまじまじと我が子の顔を眺める。
いや、駄目だ。どこか誉めなくては。
きっとそう思ったのだろう。
「この木が良い感じね。うん。この枝の感じがのびのびしていて素敵。何かしら。この木は。
松かしら・・?」
「ママ。何を言っているの。竹だよ。竹」
「ええっ?」
奥様はまた驚く。

奥様は会話の持って行き所を考える。
「写生会って、半日ずっと写生でしょう?何で終わらなかったの?」
「うーん。友達とずっとおしゃべりしていたから」
・・・
「それで宿題なの?」
「そう」
小るりは筆を動かしながら言った。

奥様はつくづく娘と絵を眺め、諦めたように言った。
「その辺、絵具で汚さないでね。水もこぼさないでよ」
そうしてため息をひとつ付くと、キッチンへ戻って行った。

吾輩はパレットや水入れが並んだテーブルにひょいと乗った。
さっきから、小るりの持っている筆が気になって仕方が無かった。
筆がひょいひょいと動く。まるで猫じゃらしの様ではないか。
筆が動く先をじっと見詰める。筆はまるで生き物の様に動く。
吾輩の視線もそれを追い掛ける。

小るりは吾輩のそんな姿を見ていた。
にやりと笑うと吾輩の顔に筆を近付けて、目の前でそれを動かす。
吾輩はそれを前足で叩き落とそうとする。
小るりはひょいと絵筆を引っ込める。

小るりはチューブから赤の絵具を取り出すとパレットにたっぷりと置いて、嫌な笑いを浮かべた。次に黄色を取り出した。それから緑も。
まるで信号である。
それを少しの水で溶く。
ねっとりとした絵具が出来上がる。その粘着程度を確かめ満足そうに笑った。
筆にそれを含ませると、突然、吾輩の顔にそれを押し付けた。
「ぴゃっ!」
冷たい。
吾輩はぴょんと跳ねた。
小娘は吾輩を指差して笑った。
「トラ。血が出ているよ。大変、大変。大怪我だ」
今度は緑色を付ける。それを吾輩の体に素早く塗った。目にも止らぬ早業だった。
吾輩は自分の体を見る。
茶トラに緑の太い線が一本。相当な違和感である。

小るりは筆を洗うと、にやりと笑って今度は黄色を付けた。
目の前でぐるぐる回してにやにやと笑う。
「信号機にしちゃうぞー」
吾輩の顔もそれに釣られて回る。

「ええい!ここにゃ!」
吾輩は大きくジャンプして筆に猫パンチを喰らわせた。
「あっ!」
たっぷりと黄色の絵具を沁み込ませた筆が絵の上に落ちた。
「大変!!」
小るりは叫んだ。
吾輩は筆を前足で弾いた。
「あっ!」
絵の上で筆は転がる。原色の黄色が青い空にべっとりと付いた。
「この馬鹿トラ!」
小娘はそう言うと、筆を取り上げて、吾輩を叩こうとした。
吾輩はぴよんと跳ねた。

跳ねた先にパレットがあった。
吾輩の足はどっぷりと絵具に浸かってしまった。
足がねとねとして気持ち悪い。
吾輩は足を振る。
飛沫があちらこちらに飛ぶ。
勿論、絵にも。
「ああっ!!」
小るりは叫んだ。
「馬鹿トラ!死ね!」
吾輩に手を伸ばした。
吾輩は逃げた。

絵の上を走り、テーブルを走り、水入れに激突した。水入れはひっくり返った。
ばしゃっと水が零れた。
「ぎゃー!!」
「ママ。トラが!」
小るりは吾輩を捕まえようと追い掛ける。
吾輩は必死で逃げる。
奥様が何事かとキッチンから出て来た。
「きゃー!!何事。こら!トラ!・・水がびしょびしょ・・ナニコレ!足跡だらけ・・ぎゃー!!ソファに乗った!ああ・・私のお気に入りのクッションが・・・・トラ!止まりなさい!!こら!止まらないと三味線屋に売り飛ばすから!」

吾輩はキャットタワーを目指して走った。そこに登ると下を見下ろした。
「ふー!!」と小るりを威嚇する。
小るりはタワーをぐらぐらと揺らす。
「こいつ。降りて来い。悪者め!!」
吾輩はタワーにしがみ付いていたが、もう落ちそうになってぴょんと跳んだ。
跳んだ先はテーブルの上。
パレットの上を走って逃げる。
足にねとねとが付いたが構っていられにゃい。
小るりと奥様が鬼の様な形相で追い掛けて来る!

逃げた先に和樹がいた。
吾輩は和樹の体に走って駆け登るとその肩に乗って毛を逆立てた。
「しゃー!!」と背中を丸めて小るりを威嚇した。

「何を騒いでんだよ。朝から・・日曜なんだからゆっくりと・・」
そう言って爪を立てた吾輩を肩から降ろして・・・。
「うわっ!!トラ!お前、血が出ている・・いや、ちょっと待て。足がべたべた・・」
その途端に、和樹は叫んだ。
「俺の服がー!!」


 
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