第34話  吾輩と夏の災難 20

文字数 1,837文字

「花之寺」から猫を従えぞろぞろと降りて来た猫和尚は「ふう」と言って白い袈裟を脱いだ。夜半までトラを待っていたがトラは帰らなかった。だから猫和尚は猫を連れて家に戻る事に決めたのだ。

 花之寺からの隧道を抜けて猫和尚は空を見上げた。紺碧の空に降るような星空が広がっていた。遠く下に広がる湖面は鏡の様な静謐さで星空を映していた。
 それを眺めて、長い間、自分はずっとここにいて何をしているのだろうかと疑問に思った。
「ご本尊を呼び戻して……。ああ、そうして、何を俺は……」
 猫和尚は首を振った。余りにも長い間待っていたので当初の目的を忘れそうになったのだ。
 猫婆が言った。
「『般若(パンニャー)の知恵』だよ」
 猫和尚は「……ああ。そうだった」と答えた。
「普賢菩薩様を探すのだろう?」
「そうだったな……」
 猫和尚は言った。

 普賢菩薩など疾うに消えていなくなってしまったのではないのか?
 こんな人間界に嫌気が差して仏界に帰られてしまったのではないか。

 だが、一体『般若の知恵』とは何なのだろう? もうそれすらも……。昔はちゃんと分かっていた筈なのに。
 記憶力が衰えているのはこの人間達のせいだ。頭が働かないのは。自分が憑依している人間達の……。何とお粗末な人間共だろうか……。まともな思考力を持たないくずみたいな人間共の。
 猫和尚は深くため息を付いて首を振った。

 猫和尚は入り口のスイッチを切った。ほんのりと明るかった隧道は暗闇の中に落ちた。羅漢猫も闇の中だ。
「あいつは黄泉の国へ行っちまったかね?」
 猫婆が言った。
「さあな。暫く様子を見ないとな」
 猫和尚は呟いた。

 次の日になって猫和尚は花之寺へ行った。クロサキだけが付いて行った。猫和尚はお堂のご本尊が仕舞われていた黒塗りの箱の扉を開けて見た。ご本尊はいなかった。
 クロサキと猫和尚はそこでトラを待った。

 二人は仄かな明かりに揺れる羅漢像に見送られて隧道を後にした。そうやってその日は何度か二人で花之寺へ行ったのであった。
 その次の日の夜、猫和尚は酒を飲んでいた。もうトラの事は諦めていた。
 説得に失敗した猫は遅くても次の日には帰って来た。
 と言う事はあいつはもう二度と帰って来ないのだ。猫和尚はそう思った。
「黄泉の国へ旅立っちまったのだろう。賢い猫だったが、まあ仕方ねえな」
 ぼそぼそと呟いた。

 その時ふと微かな悲鳴が彼の耳に届いた。それは小さな悲鳴ですぐに泡の様に消えた。
「和尚。トラ猫の家に入り込んだ猫婆が消えた」
 猫婆が言った。
「ああ。消えた」
「泡になって消えた」
「ああ。そうだ。誰かが菩薩猫を壊したのだ。……だが、もういい。あの家の猫は代価を支払った。自分の体で」
 そう言うと猫和尚はクロサキを見た。
「クロサキ。もしもお前があの花の寺の黄泉への入り口、あの前に立った日に戻れるなら、お前はここに戻ってこないで黄泉の国に行くか? どちらも大した差は無いぜ。あの洞窟から戻った猫は随分消耗してしまうからな」
 猫和尚はそう言った。
 クロサキは無表情に返した。
「いや、俺は戻って来て良かったよ。何故ならお前を殺せるからな」
「お前みたいな死に損ないに何が出来る? それに俺が死んでしまったら、ここにいる猫達は餓死して死んでしまう。こんな所に他の人間はやって来ないからな。誰も人が住んでいるとは思わないさ」
「……」
「ここには何も無い。ただ黄泉への入り口があるだけさ」
「……」
「誰も湖を渡ってやっては来ない。ここは特別な場所だからな」
「……」

 猫婆が言った。
「さあ、そろそろ次の獲物を狩りに行く準備だ。明日、朝早くに出掛けよう」
「そうだな。……だが、猫婆。そろそろ俺は疲れたよ。」
「馬鹿言ってんじゃないよ。まだまだ頑張らなくちゃあならないんだ」
「猫婆はいいよ。泡と消えてまた生まれるのだから。だが、俺はずっと俺のままでこの世にいるんだ」
「仕方が無いだろう。それが私と猫和尚の仕事なのだから。仕事はしなくちゃならないんだ。嫌でも何でも。……ところで、今度のお供は誰を連れて行くんだい」
「クロサキさ。俺のお供はクロサキって決まっているんだ」
「クロサキはダメだ。相当弱っている。こいつは、この先長くない。途中で死なれたら厄介だ……。中町のハナはどうだい? あの器量良しのハナ子は」
「ちっ。仕方ねえな……ハナ子は馬鹿だからなあ。話をしていても面白くねえんだよ。……でも、まあ仕方ねえか。そろそろ俺が教育してやるか」
 猫和尚はそう言うと「よっこら」と立ち上がった。

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