第12話  吾輩と「竹里館」 2

文字数 3,953文字

月が作り出す影は黒が薄い。白は暗い青に近い。
その上を歩きながら、吾輩は思う。
実は吾輩は父に尋ねてみたいと思う事があったのだ。
頭の中で父猫に質問をする。

父さん。
実は吾輩にはもう一匹父猫がいるのです。
父さんが吾輩の本当の父だと言うなら、じゃあ、あのデブトラは何者ですか?
どうして彼は吾輩の父だと言うのでしょうか・・?
それは聞いていいものか、悪いものか・・・吾輩は悩んだ。
みけ子の立場が悪くなるのではないか・・・?
そして言うのを止めた。

また思う。
父さん。父さんはみけ子という妻がありながら、3軒先の白猫と浮気をしていたのですか。
家の奥様がそう言っていたのです。
少し考えて、それを尋ねるのもやめた。

先を行く、若トラはふと立ち止まり、吾輩に言った。
「その、青い首輪。とてもいいね。君に似合っている」
吾輩は曖昧に頷いた。
みけ子がどうしても嫌がるから、奥様は吾輩に付けたのだ。本当は吾輩だって嫌なのだ。

竹林を過ぎると小さな家があった。木造の古い二階家である。
家の明かりが庭をぼんやりと照らしている。
縁側に浴衣姿の男が座っていた。
吾輩は立ち止まって男を見詰めた。

若トラがとっとと走って縁側に飛び乗った。男の体にするりするりと体を触れて歩く。
そして吾輩を見た。
吾輩もてってと歩いて庭先に留まった。
男は吾輩を見て驚いた。そしてにっこりと笑った。

若トラの頭を大きな手でがしがしと撫でると、家の奥に向かって声を掛けた。
「おい。セツコ。ほら。見てごらん。僕の言った通りだろう。又三郎は人間の言葉が分かるんだ」
家の奥から見知った女性がやって来た。
三文作家の奥様である。
という事は、この男が三文作家なのだなと吾輩は思った。

奥様は吾輩を見て驚いた。
「あら、まあ。お隣のトラちゃんじゃないの」
そしてふふふと笑った。
「あなたが、又三郎の子供なのね。こんばんは。いらっしゃい」
吾輩も「にゃあ」と挨拶をした。

「おこんばんは。よい月夜ですね。今宵はお招き有難う御座います」
人間の言葉だと3文で表現する所を我ら猫族は「にゃあ」一語で表現する。
どちらが優れているかと言うと時短という点で圧倒的に猫族ではないだろうか。

「セツコ。ほら酒を持って来て。君もここで飲むといい。又三郎と・・君の名は、トラ君でいいのかな?トラ君には、ほら、あれ、何とかちゅーるを」
三文作家は嬉しそうに言った。

「はい。はい」
奥様はそう言うと奥に入って行った。

「トラ君。トラ君。ここへおいで。又三郎と並んでごらん」
三文作家はそう言って吾輩を手招きした。
吾輩は縁側に飛び乗った。
大小の茶トラが二匹。同じ模様。
それを面白そうに眺める男。
「うん。うん。又三郎と同じで君も賢い顔をしているね。君もきっと人間の言葉が分かるのだろうな・・・。僕も自己紹介をしよう。僕の名は宮沢又一郎。37歳。売れない三文作家さ」
吾輩はちょっと太宰に似たその面を眺めた。


「大学時代に一度、文学賞の新人賞をとったんだ。○○出版社の。あの時は『稀代の新星現わる』とか言われて有頂天になっていたけれど・・・・それからは鳴かず飛ばずで、細々と雑誌などに文章を書いているよ」

「ひょっとして、君は知っているかな?『風野又一郎』というペンネームなのだが・・」
彼は言った。
吾輩はひどいペンネームだと思った。

「にゃ」
吾輩は短く答えた。
「そうか。やっぱり知らないよな。(笑)・・・うん?」
又一郎氏はそう言って首を傾げた。暫し、吾輩を見詰める。
「いや、気のせいだな・・」
そう呟いた。

奥様がお盆を運んで来た。
お盆の上にはコップが二つ。それとビールの瓶。
幾つかの小皿におつまみが乗っている。
それに吾輩の大好きな○○ちゅーる。
それも吾輩の一番好きなマグロ味!

奥様は縁側にお盆を下ろすと、旦那様にコップを渡してビールを注いだ。
旦那様も奥様のコップにビールを注ぐ。
酒のお伴は筍の煮物である。

奥様は2つの小皿に○○ちゅーるをちゅるっと出して「はい」と若トラと吾輩の前に置いた。
吾輩はそれを夢中で舐める。
あっという間に舐め終わって、若トラの皿を見ると若トラも舐め終わっていた。
吾輩は奥様をじっと見る。
「もっと欲しい」
願いを込めて奥様を見る。
奥様は追加してくれた。
吾輩は自分の分をさっさと舐めて若トラの皿に向かった。
そして若トラと並んで皿を舐めた。若トラは呆れた顔をして言った。
「何て意地汚い奴なんだ」
吾輩は舌で口の周りを舐め乍ら言った。
「早い者勝ちだにゃ」


穏やかで静かな夜だった。

「トラちゃん。ごゆっくり。私は台所の片付けがあるから、これで失礼しますね。・・・あなた、ビールがまだ残っていますけれど、如何しますか?」
奥様はそう言うと、盆の上に皿などを載せて立ち上がった。
「ああ。置いて行ってくれ」
又一郎氏は答えた。
吾輩は○○ちゅーるの袋を見詰めた。
それを置いて行ってくれないだろうか。
奥様は吾輩の熱い視線に気付かず、奥へ行ってしまった。

三文作家は言った。
「僕は今、あまり精神の状態が良くないんだ」

「僕はここの所、ある物語に囚われてしまって・・・。その物語は僕を掴んで離さないんだ。
僕にはたまにそんな事がある。そうなると朝から晩までその物語の事を考えているんだ。それは、僕が考えようとして考えているのでは無くて、向こうからやって来るんだ。僕はそれから逃げられない。それで疲れてしまって・・・。何をしていても物語は僕に付き纏って離れない」


「脳が言う事を聞かないんだ。脳はそれを考える事が好きなんだ。それにどっぷりと浸っていると幸せなんだ。だから、そうしようとするんだ。目が覚めるとその物語を考える。夜、眠りに就くまで物語は僕の頭を離れない」

「そう言う時には、ぼーと考えながら何かをしているものだから、色々と失敗をする。忘れ物をしたり・・・この前は買ったものを袋ごと店に置き忘れた。・・・電車を乗り過越すこともしょっ中だし・・・前回は、はたと気が付いたら、以前働いていた会社の前に来ていたよ」
彼は笑った。

吾輩は首を傾げた。
「ああ。僕は外で働いた事があるんだ。数年間。だって、余りにも収入が無くて・・・結局は辞めたけれどね」

三文作家は頬杖を突いて吾輩を見た。
その姿は、雑誌などで目にする芥川龍之介の写真に似ていた。
細面でこちらをじっと見詰める芥川の目。
あれは境界の向こう側を覗き込んでしまった者の視線だと思った。
鋭利な頭脳を持ち(自分のモノでありながら、自分では手に負えない程の)、自分の心の奥底を見詰め、敷衍し、他者と己と世の中を限りなく深く見通した。
そして何かを悟ってしまった者の透徹した視線。
そこに、ある種の諦念を吾輩は感じた。

だが、この三文作家の視線はそこまで深く、鋭利では無かった。
寧ろぼんやりだった。

彼は続ける。

「意識レベルが低下するってあった。昔読んだ心理学の本に。
無意識に囚われた人間は、・・いや、元型だったかな?・・・元型に囚われた人はそれに飲み込まれ、意識レベルが非常に低下するって。それは自分が望むのではなく向こうからやってくる。だから逃れ様が無いんだ。・・・それは危険な状態だと書いてあった。それに飲み込まれてしまった人間は生活意欲が無くなる。僕のこれもそれに似ているなって思った。・・・まあ僕はそこまで重症ではないけれどね」

「こういう状態に陥ると僕は物語を考える事以外、何もしたくなくなる。食事も、風呂も、買い物も、他の仕事も。雑用も。・・・トイレに行くのさえ面倒になるんだ。ずっとPCの前に座って果てしなく文章をこねくり回している。ある意味、この状態は何かの中毒に似ているなと感じた。だが、生活意欲が無くなると言う点では鬱に近いかも知れない・・・」

「僕はセツコがいなかったらきっと餓死していたと思う」
三文作家はそう言って笑う。そしてコップに残ったビールを口に運んだ。

「そうかと言って、じゃあすごい物語が書けるかというと、そうでは無い。何故なら、この深淵な物語に対して、僕の技量はあまりにもお粗末だからね・・・・表現力が足らないんだ。絶望的に」

「にゃ?」
「ああ。もうかれこれ半年になるかな・・・うん?」
三文作家は吾輩の顔をじっと見る。
そして自分のこけた頬を大きな掌で撫でた。
「参ったな・・・・。僕は余りに人間としての意識レベルが下がったせいで、猫の言葉が分かる様になってしまったのか?・・・動物レベルまで僕の意識は落ちてしまったのだろうか・・・」
そう言って二匹の猫を見る。
二匹の猫は男を見る。
「君の言葉はやけにクリアに理解できる。時々、又三郎の言葉も理解できると感じてはいたが・・・。君はきっと特別な猫なんだね?」
「にゃ」
吾輩は答える。
又一郎氏は頷く。

「にゃにゃ?」
「ああ。セツコか。セツコはいつもの事だと言っている。信号だけはきちんと守る様にとそれだけは言われている。車に轢かれるから」

「にゃ・・・」
「ああ、そうだよ。セツコは僕には勿体無い程の妻だ。・・・セツコの実家は裕福なんだ。義父母は僕達に生活費を支援してくれている。僕は自分が情けない。本当に情けない。・・・・いつか、傑作を書いて義父母やセツコに報いなければと思っているのだ。だから今の物語がちゃんとした文章になれば・・・」
三文作家はそう言って呆けた様に庭を見ていた。

吾輩は竹林を見る。
竹林は綺麗に手入れがされていた。
月光に照らされた植物は静かに呼吸を繰り返す。
まるで時が止ってしまった様な場所だと思った。
琴の音でもあれば、正に『竹里館』である。
小さな家の縁側には浴衣姿の男と二匹の猫。
竹林と満月。
それはまるで一幅の絵の様にそこに在った。

三文作家はぽつりと言った。
「いい所だろう?ここは僕の生家なんだ。両親はもう亡くなってしまったけれども・・・
僕の持ち物はこれだけなんだ」
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