第31話   吾輩と夏の災難 17 

文字数 1,595文字

 辺りが涼しくなって来た夕刻近く。満腹寺カン吉は丸くなって深い思索の中にいた。
 クロサキの事を考えていたのである。あの時、クロサキは夢の中で「お前の息子に危険が迫っている」と言ったのだ。だが玄関から出て来た息子の茶トラは涼しい顔で「何も変わりは有りません」と言った。カン吉は狐に摘ままれた様な気持ちで寺へ戻って来た。
 クロサキはあれから姿を見せない。カン吉はどうにも腑に落ちなかった。

「俺は三毛野郎と縄張り争いをした訳じゃない。俺は奪われたんだ。俺の住処を。俺にはどうする事も出来なかった。争う事も出来なかった」
「じゃあ、何で縄張り争いなどという噂が流れたんだ?」
「さあ? だが、もしかしたらそれは未来を……」
クロサキは話の途中で止めてじっと考え込む。
「未来? 未来がどうしたんだ?」
クロサキは「いや、何でもない。だが、満腹寺。猫っていう生き物は酷くカンが鋭い時があるからな」と言った。
カン吉は「あ? ああ。そうだな」と返したが、実際クロサキが何を言っているのか分からなかった。
クロサキは「いや、俺の事などどうでもいい。満腹寺。お前の妻子もアブねえぜ」と言った。
それを思い出してカン吉は慌ててみけ子の家に向かったのだが……。
「うーん。分からん。だがしかし夢だからにゃあ……」
 カン吉は首を捻った。
 クロサキが来てから3日が過ぎていた。

 静かな夕暮れだった。
 寺の境内にはあちらこちらに彼岸花のつぼみがにょきにょきと生えて来ていた。外気温は夏の盛りみたいに暑いのに、彼岸花はちゃーんと体の中にカレンダーを仕込んでいて、時期になるとつぼみを付ける。その内、この境内のあちらこちらに美しい彼岸花が揺れるだろう。こんなに暑いのに。
 カン吉は目を閉じた。またクロサキの事を考える。
 と、誰かが門の所から走り込んで来た。
「親分。親分。てえへんだ!」
 ゲン太である。
 ゲン太の家は寺の斜向かいにあるので、満腹寺の事は何でもお見通しなのである。
「うるせえ奴だな。相変わらず。ゲン太、俺は今ちょっと考え事をしているから静かに」
「そんな場合じゃ御座んせんぜ!親分の『コレ』が……」
 そう言うとゲン太は前足を上げて指を見せた。
「?……何だ? おめえの前足がどうかしたのか?」
 ゲン太としては小指を立てた積りなのだが、猫の前足でそりゃあ無理がある。時々、魚屋の旦那がやっているのを見て真似をしてみたのだ。
「コレっすよ。親分のコレ。みけ子姐さんですよ」
「な、なんだと!!」
 カン吉は驚いて立ち上がった。見ると夕刻の境内を優雅に一匹の三毛猫が近寄って来るではないか。
「ど、どうしたんだ。みけ子。発情期(さかり)はまだまだ先だぜ? この暑さでホルモンバランスが狂っちまったのか?」
 カン吉はうろたえる。みけ子はカン吉に近付くと顔を近付けくんくんと匂いを嗅ぐ。そしてカン吉の顔をぺろりと舐めた。すっかり固まっているカン吉にするりするりと体を摺り寄せて歩く。
 ゲン太はごくりと唾を飲み込んだ。
「ご無沙汰しておりました。満腹寺の親分」
 みけ子は言った。

 カン吉とみけ子は何かを話している。ゲン太は二人を邪魔しない様に遠くから見ていた。
 と、みけ子が「じゃあ、そう言う事で。宜しく。親分」と言って去って行く。その後姿をゲン太はうっとりと見ている。
「いやあ、いつ見ても綺麗な姐さんですなあ。あっしはあんな綺麗な三毛猫を他に知りませんぜ。ねえ。カン吉親分。……あれ? カン吉親分? どうしたんですかい?」
 カン吉は厳しい顔付でみけ子を見送っていた。そしてゲン太に言った。
「ゲン太。仲間を集めろ。……いや、皆じゃ無くていい。でかい奴らがいい。3匹、3匹でいい……。行くぜ。出入りだ。久々の出入りじゃあ!!」
 そう言うとカン吉はがっと走り出した。
「お、親分。どこへ行くんですかい!ちょっと待って。おやぶーん」
 ゲン太はその後を大急ぎで追い掛けた。
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