第1話  吾輩はトラである。 1

文字数 2,038文字

吾輩はトラである。名前はまだない。


トラと言ってもトラ猫である。
父は隣の三文作家の家の茶トラで、母はこの家の三毛猫である。
父は母を孕ませて、その後は全く音沙汰無しである。あろう事か一週間後には3軒隣の白猫にコナを掛けていたらしい。奥様がそう言っていた。
「やるだけやって後はとんずら」を具現化した態度、その余りの薄情さに吾輩は涙を禁じ得ないと思った。



籠の中で生まれた吾輩には兄姉が3匹。吾輩は末っ子らしい。
「みゃあ。みゃあ」
まだ鳴き声が「にゃあ」にならない。

誰も彼もが争って母親の乳にむしゃぶりつく。
母親は舌で吾輩を舐めてくれた。
吾輩は母親の乳を飲みながらそうやって舐めて貰うのが好きだった。
そして余りの気持ち様さにそのまま眠ってしまうのだった。


兄姉は皆三毛猫である。
黒と茶の模様はそれぞれに配置も大きさも違うが、誰もが白地に黒と茶の毛皮を着ていた。
吾輩のみがトラ猫らしい。
「らしい」と言うのは、自分の姿が見えないからである。
見えるのはか細い前足と白いお腹だけだ。
茶色の毛がふわふわと付いていた。


 母の「みけ子」の飼い主はこの家の奥様である。奥様にはお子様がいる。お子様は高校生男子と小学生の女の子である。

 この女の子の五月蠅い事。

吾輩達を代わる代わる抱き上げては、挙句の果てに自分の服のポケットに入れてみたり、頭にのせてみたり、兎に角べたべたと触りたがる。
甚だ迷惑な子供である。
「触るな。このクソ餓鬼。ちび野郎。」
あらん限りの罵詈雑言を並べて、そう騒ぐのだが、相手はとんと気付かない。

「ママー。何でこの子だけ、トラ猫なの?変なのー」
小娘が言った。
余計なお世話である。
「パパ猫に似たんじゃないの?ペタペタ触らないで。みけ子が嫌がるから」
奥様は台所からそう言った。


 次の日、母猫が吾輩の襟首を咥えてどこかに連れて行った。
吾輩は「みゃあみゃあ」鳴いて抵抗したが、襟首を掴まれると何故か声も出なくなって、そのままぶらぶらと揺れながらどこかに運ばれて行く。手も足も動かない。


母猫は階段をトントンと上がって行く。
少し開いたドアの隙間からするりと入り込むと、吾輩をほかほかの布の所にそっと下した。
「静かにここで待っていなさい」
そう言って吾輩の頭を舐めると、すたすたと出て行った。

暫くすると開いたドアの隙間から「みけ子。ご飯よ」と呼ぶ奥様の声と「にゃあ」という母猫の嬉しそうな声が聞こえて来た。

吾輩は暖かい布に潜り込んだ。
「おや?」
この布はトンネル状になっている。
吾輩はずっと奥まで進んでみた。
そこで母を待つ。
じっと待つ。

トントンと誰かが階段を上がって来る。
奥様の足音だ。

「雨が降りそうだから、洗濯物を取り込まなくちゃ。あら、やだ。また、和樹は開けっ放しにして」
そう言ってバタンとドアを閉めた。

母は現れなかった。
吾輩は待ちくたびれてほかほかトンネルの中で眠ってしまった。

実は吾輩がトンネルの中で眠っていた頃、母も籠の中で眠っていたのであった。
ご飯を食べて満腹になった母は吾輩を忘れて丸くなって寝てしまったのである。
吾輩を置き忘れたのだ。
3匹の子猫を抱いたまま。吾輩の事など微塵も思い出さずに・・・。
吾輩はあの時の事を思い出すとこれまた涙を禁じ得ない。


いたずら小娘が帰って来た。
小娘は籠の中を覗いて子猫の数を数えた。
首を傾げる。
母猫の体を動かして隙間を探す。

「ママー。トラがいないよー」
小娘は言った。
「そんな筈はないわよ。小さいからどこかに埋もれているのよ」
小娘は子猫を動かしてみる。
「おかしいな・・」
そう言って辺りを見渡す。

「あら、大変。もうこんな時間。るり子。ピアノ教室へ行くわよ」
「でもママ。トラが・・」
「トラなんか後々(あとあと)。早く行かないと、遅れちゃう」
奥様と小娘はばたばたと家中を走り回り、慌ただしく玄関に向かう。
バタンと玄関のドアが閉まって家中が静寂に包まれた。


腹が空いて目が覚めた。
しんとした空気の中で吾輩は不安になった。
母はどうしたのだろうか?
毛布のトンネルを抜け出して、外に出てみようと思った。
「あれ?・・どっちが出口だ?」
吾輩は暫し考える。そして一方を選んで歩き出すが、トンネルはどんどん狭くなる。
これは困った。
方向転換が出来ないので、そのまま後ずさりをした。
ところがふかふかトンネルの糸が爪に引っかかってどうしても取れない。
吾輩は母猫に助けを求めた。
「み”ゃー!!み”ゃー!!」
暴れている内に両足の爪に何本もの糸が絡まって吾輩はホカホカトルネードに捕らえられてしまった。
吾輩は生まれて初めてパニックを経験した。
暴れれば暴れる程、糸は絡み付いた。

怖ろしい。こんな怖ろしい罠が仕掛けられていたとは。
どうして母は助けに来ないのだ?
吾輩には何が何だか分からなかった。

空腹と恐怖と孤独が吾輩の臨界を超えた。
吾輩は電池の切れた人形の様にそこにぱたりと伏せた。
未発達な脳が「これは寝てしまうしかない」と判断したのだろう。

吾輩は母の甘いお乳を飲む夢を見ながら、ぺろぺろと口を嘗めて眠ってしまった。
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