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文字数 2,679文字
あなたの文字で書かれた文章は、それはそれは辛く、読むに堪えないものでした。美しい彼が病み衰えていく悲惨、血を吐き、悶え苦しむ凄絶。
乾いた筆致で簡潔に綴られたそれは、冷徹でした。
私は、恐ろしさに震え上がりました。
手記は、途中から始まっていました。1832年、6月。プリンスの死の1ヶ月前、すでにシェーンブルンで、最期の日々を送っていた頃からです。一番上のページは、明らかに前のページからの続きで、この前にも手記があったことはまちがいありません。
紙の束は、メープル素材の小函に納められていました。読むのを諦め、元に戻そうとした時、私は、その函がいやに重いことに気がついたのです。よくよく見ると、底板の部分がひどく厚くなっていました。
すぐに、仕掛け箱だとわかりました。この手の函は、知り合いの工芸家の工房で見たことがあります。
ダメですよ、モル男爵。大事なものをこんな函に隠しては……。
果たして、函の底には、手記の大部が……プリンスの軍務が始まった日からの……、ひっそりと隠されていました。
公的な報告を要求された時の、覚え書きだったのでしょう。いわば、軍務における、プリンスの観察記録。
しかし、行間に滲んでいたのは、紛れもない、あなたの恋心でした。プリンスの一挙一投足を漏らさず追い、彼が目を向けるものを眺め、たまさかその目が自分に向けられると歓喜して喜ぶ……。
私は、読まなければよかった。あなたの、秘められた心を。
……モル男爵は、本物の愛情をもって、プリンスに尽くした。
ライヒシュタット公の親友、プロケシュ少佐は、こう言ったそうです。本物の愛情、と。
さすがに、親友は違いますね。見るべきところを、ちゃんと見ている。
途中まで読んだ時、外に足音が聞こえました。私は慌てて、手記を閉じました。メープルの小函を隠し終えた時、あなたが、図書室に入ってきました。あなたは微笑んで歩み寄り、私にキスをして……。
その時は、何も気がついていないように見えたのに。
次の日、抑えがたい衝動に駆られ、再び、その函を手にした時、箱にあったのは、薄い、看護記録だけでした。函の底に隠された、大部の手記は、消えていました。
そして、暖炉には、大量の灰が残っていました……。
モル男爵。さっきの質問です。
宰相メッテルニヒは、なぜ、あなたを、ナポレオンの息子の付き人にしたのでしょう。
女性を愛せないあなたを。
男性に、どうしようもなく惹かれてしまう、あなたを。
もし、宰相が、プリンスの死を予見していたのだとしたら?
死ぬまでの間に、彼が、子孫を……人知れず隠し子を……残すことだけが、宰相の心配事だったはずです。ナポレオンの息子が、その血を繋ぐことだけが。
あなたは、彼に、何をしたのですか? どうやって、彼の恋を、壊したのしょう。それも、何度も、何度も。
モル男爵。あなたは、恐ろしい方だ。
優しい顔をして近づき、たやすく虜にしてしまう。私がそうであったように。
気がついた時には、もう、遅い。自分が餌食になったとも知らず、獲物は、陶然と……。
……。
つまらぬことを書きました。全ては、私の妄想です。優美なプリンスへの、嫉妬のなせる業です。
現実には、彼は、あなたのものにはなりませんでした。第一、そんな時間はなかった。任官の時には、既に病は、相当、
だから、未だに、あなたの胸に、美しい影を宿し続けているのです。
なんだか、寒くなってきました。昼間は、ひどく暑かったのに。それに、肌がひりひりします。空気が、ひどく乾燥しているからです。明らかに、ウィーンとは違う気候です。
もうすぐ、エルサレム到着です。今回の行幸の、下絵の構図は考えてあります。記録画家として、完璧な仕事をしてご覧にいれましょう。この旅を企画したあなたに、敬意を表して。
私はこれを、記録画家としての最後の旅にするつもりです。
今回の仕事が終わったら、ずっと、あなたと一緒にいます。たとえそれが、世間の
私は、あの、美しいプリンスとは違う。彼は生涯、ウィーンの宮廷を出ることを許されませんでした。けれども私は、ウィーンを追われてもいいのです。私には、全てを捨て去ることができます。守るべき名誉も、周囲の期待もありません。
モル男爵。ヴィラ・ラガリーナで、共に暮らしましょう。
明るいイタリアの太陽の下で、私は、もっともっと透明な絵を描きます。澄んだ空気の絵を。あの麗しいプリンスの、瞳の色のような青空を。
ああ、早く帰りたい。
ヴィラ・ラガリーナ、あなたと二人、安らぎの家へ。
(エドゥアルド・グルク:ヴィラ・ラガリーナの邸宅付近)
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1841年3月31日、エルサレムにて、フェルディナント皇帝の記録画家、エドゥアルド・グルク没。ペストだった。享年39歳。
(エドゥアルド・グルク:自画像)
それから170年以上も経って、グルクの絵が、イタリアのヴィラ・ラガリーナで発見された。ヴィラ・ラガリーナは、フェルディナント帝の式部官、モル男爵が取得した邸宅である。モルは画家より4歳上、仕事を通じ、旧知の間柄だった。
二人は、次第に親しさの度を増していった。宮廷の儀礼的な付き合いを超えて、親密なものとなっていったらしい。特に、エルサレムへの最後の旅の前、画家が、ヴィラ・ラガリーナで6週間を過ごしたことは、これを裏付ける。
絵は、完璧な保存状態にあった。しかし、ウィーン宮廷に納められたはずの絵が、なぜイタリアにあったかは、謎とされている。
なお、モルは、生涯、独身だった。
fin
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モルの手記がフランスで出版されたのは、1947年です。この手記は、ずっと、モルの家の図書館に保管されていました。そして、前半部分(合計1年3ヶ月のうちの、1年分です)が欠損していました。モル自身の手で、破棄されたようです。
なお、手記を発見したのは、モルの甥か姪の子孫だったようです。
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イタリア語のwikiで、モルの画像を見つけました。中年になってからのものです。