3 回想・タンプル塔を出て2

文字数 3,047文字





 1799年、ラシュタット会議が決裂し、フランスは再び、オーストリアに宣戦布告をした。オーストリアは、イギリスの他、ロシア、トルコとも手を結び、これに立ち向かった。
 カールは、スイスの防衛に赴くことになった。







 出発前日の夕方、彼は、宮殿の中庭に佇む白い影を見つけた。
 マリー・テレーズだ。
 一人でいる彼女を、やっと見つけた。

 近づいてくるカールに気がつくと、マリー・テレーズは、身構えた。

 「怯えないでほしい」
カールは声をかけた。
 無骨な呼びかけに、テレーズが、わずかに微笑んだような気がした。

 勇を得て、カールは言った。長い間、言わなければならないと思っていたことを。
「救出が遅れて、本当に申し訳なかった。貴女は、恨んでいるだろうか。私達の国が、貴女のご両親と弟さんに冷淡だったと」


 オーストリアのフランツ帝は、フランスへ嫁いだ叔母の顔を知らない。だから、見殺しにしたのだと、ヨーロッパのあちこちで囁かれた。

 だが、それは違う。

 フランス革命の初期、オーストリアは、内政干渉を理由に、静観の構えだった。フランツ帝の伯父、ヨーゼフ2世、そして父、レオポルト2世治下の頃からである。
 1791年、ヴァレンヌ事件が起きる。オーストリアへの亡命を謀った国王一家は捕らえられ、デュルリー宮殿に幽閉状態となった。
 フランスは、立憲王制の道さえ、完全に葬り去ったのだ。

 革命初期に亡命していたフランス王弟アルトワ伯(後のシャルル10世)のたっての頼みに、オーストリアのレオポルト2世と、プロイセンのヴィルヘルム2世は、「ピルニッツ宣言」を出した。ここに至ってもまだ、必要があるなら介入する、程度の牽制に過ぎなかった。

 だが、フランス革命政府は、深刻に捉えた。
 翌年4月、フランス革命政府は、オーストリアに宣戦布告をしてきた。

 ところが、オーストリアではその前月、レオポルト2世が急死していた。伯父(ヨーゼフ2世)(レオポルト2世)の相次ぐ急死を受け、帝位は、レオポルト2世の長男フランツに受け継がれた。



神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世


 弱冠24歳の皇帝フランツは、宮廷内の旧勢力を一掃する必要があった。加えて、イギリス、ロシアなどの大国と、協調していかなければならない。神聖ローマ帝国は崩壊しかけており、その権威は、何の役にも立たないどころか、むしろ邪魔だった。

 このごたごたにオーストリアがある時、フランスでは国王ルイ16世は処刑された。次いで、王妃アントワネットも。

 ハプスブルク家の女性の処刑、それもギロチンでの処刑に、兄帝をはじめ、カールら甥達は、耐え難い怒りを覚えた。
 唯一生き残ったアントワネットの娘、従姉妹のマリー・テレーズとの再会した時には、兄帝もカールも、傷ましさと申し訳無さで、顔を上げることができなかった。


 「いいえ。そんなふうには思ってはおりません」
だが、意外にも、テレーズは首を横に振った。
 なおもカールは続けた。
「だが、憎んでおられる筈だ。貴女から家族を取り上げた者どもを」

「父に最後に会った時、」
 そう言うマリー・テレーズの声は、低くかすれていた。4年間の幽閉生活で、発声障害を起こしてしまっているのだ。
「決して自分の復讐はしないようにと、父は言いました。あなた達は、父のことを、ぼんくらな王だと思っているのでしょうけど」
「そんなことはない」
即座にカールは否定した。

 彼の兄(皇帝フランツ)も、凡庸な皇帝だと、一部の臣下達に噂されている。廷臣たちが惜しむのは、彼、カールや、弟のヨーハンなのだ。
 だが、自分たちがどれだけ、兄より優れているというのだろう!

 カールは、伯母夫婦の養子となった。体の弱い華奢な体格だったが、為に、一層、軍人に憧れた。そんな彼の願いを聞き入れ、軍務への道を歩ませてくれたのは、兄の計らいだった。

 凡庸と言われる兄は、家庭を大事にしていた。戦場からも、妻への手紙を欠かさない。

 ルイ16世も、妻アントワネットや娘のテレーズ、息子のルイ・シャルルを、どれだけ大切に思っていたことだろう。たとえそれが、王の資質としてふさわしくなくても、子どもにとっては重要なことだと、カールは思った。
 王朝の未来を担うのは、まっすぐ育った子どもたちなのだ。


 カールの強い否定に、マリー・テレーズは目を伏せた。早口に付け足す。
「母の遺書にも、決して、復讐をしようなどと思ってはいけない、と書いてありました」

 「母」という言葉が、少し、高くなった。しかし彼女の喉は、高い音を出しきることができなかった。よりいっそう、「母」という言葉はかすれた。

 「貴女の受けた苦しみに敬意を表します。貴女を、幸せにしたい」
 大きな苦痛と悲しみに耐えてきた従妹に、カールは、言わずにいられなかった。

 マリー・テレーズは目を見開いた。大きな瞳に映った自分に向かって、カールは、更に言葉を重ねる。
「今からでは遅すぎると、貴女は思われるかもしれない。だが……、この私が誅してこよう。あなたの父上、母上、弟君……私の叔母と、小さな従兄弟を、むごい方法で殺したやつばらを」
 カールは、彼女の手を取った。従姉妹の手は、小さく、冷たかった。ぐったりとした魚のように、反応がない。
「だから、お願いだから、私が戦場から帰ってくるまで、待っていてくれないだろうか」

 ルイ16世とマリー・アントワネットを斬首し、テレーズの弟を幽閉中に死なせたのは、革命思想だ。
 そのフランス革命軍との戦いに、明日、カールは出陣する。

 カールは一層強く、白い手を握った。
「必ず勝って帰る。だから、待っていて欲しい」

 やっと、マリー・テレーズは、自分の手を握られていることに気づいたようだった。火傷したように、カールの手から引き抜こうとした。

 いま暫くの間、カールは、その手を放さなかった。









 北イタリアで勝利したロシア軍が、スイスへやってきた。スイスにゆとりが生まれ、カールは再び、ライン方面へ赴くことになった。休暇を兼ねて、彼は一時、ウィーンへ帰った。

 ……女というものは、待たせてはいけないものなのだ。
 兄の皇帝に諭されたカールは、心を決めた。
 マリー・テレーズは今年、21歳になる。カールは、28歳になる。フランスとの戦いが長引くのなら、今のこの時を捉える他は、あるまい。






 連合軍は、勝利を続けている。
 意気揚々とウィーンに凱旋すると、……従姉妹の姿は消えていた。







 その頃、マリー・テレーズの叔父、ルイ18世は、ロシア皇帝の庇護を得て、ロシア領ミタウに居を定めていた。1799年5月、マリー・テレーズは、ミタウへ旅立っていった。父方の従兄弟、アングレーム公と結婚するために。
 彼女は、母方の従兄弟カールではなく、フランス、ブルボン家を選んだのだ。



ブルボン家 アングレーム公







 同じ年の11月、エジプトから急ぎ戻ったナポレオンは、ブリュメール18日のクーデターを起こし、フランスの政権を掌握する。
 翌年、マレンゴで、オーストリア軍は、ナポレオン軍に敗北した。
 これにより、フランスは、再び、イタリア北部を掌中に納めた。







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一部、チャットノベル「三帝激突」とかぶるところがあります。国際情勢などは、チャットノベルの方が詳しいです。チャットノベルには、詳述したブログへのリンクもはってあります。
https://novel.daysneo.com/works/eceff3ea40695da78a13bc61a174a061.html







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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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