4 アスペルンの勝者

文字数 3,700文字




 1804年、ナポレオン・ボナパルトは、自らの頭に冠を載せ、「フランス人民の皇帝」を名乗った。
 この瞬間、彼は、オーストリアの敵から、カール個人の敵となった。



 翌、1805年。
 イタリアからとって返したナポレオンは、今度こそ、オーストリアの首都、ウィーンに向けて侵攻を開始した。
 イタリアを任されていたカールは、間に合わなかった。ウルム戦役でマック将軍は早々に投降し、オーストリアは敗北した。
 そして、ウィーン陥落。フランス軍は、ハプスブルク家の美しい夏の離宮、シェーンブルン宮を占拠した。







 シェーンブルン宮殿での、オーストリアとフランス、両陣営司令官の会談の後。少なくともナポレオンは、カール大公への友情を、片時も忘れることはなかった。
 だがこれは、カールには迷惑な話だった。
 ……ナポレオンがカール大公を持ち上げ、凡庸な兄フランツに代わって王位を狙うよう焚き付けた……
 ……とされる噂が、ウィーン宮廷に密やかに流れた。

 ハプスブルク家は、長男の即位が鉄則だった。だが、未だに、兄のフランツ帝より有能な弟に期待する廷臣たちは多かった。

 兄の、あまりに大雑把で掴みどころのない指示に、カール自身も苛立つことが、何度かあった。
 「戦争には、望みのものを誰でも連れていくがいい。将官、その他、どんな地位にでも任じていい」
 などという指示には、カールに従う臣下達の間からも怨嗟の声が湧き上がった。

 だが、兄帝(皇帝フランツ)は、カールを信じていた。


 ウルムとアウステルリッツでの敗北の翌、1806年。フランツ帝は神聖ローマ帝国を解体し、「世襲によるオーストリア皇帝」を名乗った。

 カールは兄から、全オーストリア軍総帥ならびに陸軍大臣に任命された。

 幸い、カールの部隊は、まだその大部分を残していた。弟ヨーハンの軍は、無傷で残っている。2つの部隊を、彼は温存するつもりだった。
 カールは、弟ヨーハンと図って、改革に着手した。官僚的な形式主義を簡素化し、大隊を予備隊に格下げするなどして、経費削減を断行した。また、いざという時に備え、民兵を入れて、正規軍を補強した。


 ……もしあの時、兄が、廷臣達の言うことを真に受けたとしたら。自分がナポレオンと謀って、兄を裏切ろうとしていると、疑ったとしたら。

 この時初めてカールは、ナポレオンという男の恐ろしさを思い知った。
 従姉妹をアングレーム公の元に走らせ、自分から恋をする資格を奪った、フランス革命戦争。その戦争を勝ち進み、革命の果実をわがものとした男の正体を、はっきりと掴んだ気がした。







 「軍の同志諸君。我らオーストリアの民が、諸君に期待している。……欧州は、諸君の旗の下での自由を希求している。……ドイツの兄弟たちは、諸君の力による救済を待ち焦がれている」

 前回の敗北、そしてナポレオンとの会見から4年。
 1809年、4月9日、大公カールの名で、オーストリア軍に、決起が呼びかけられた。



 開戦すぐの、エッグミュールの戦いでは、オーストリア軍は敗北した。
 ウィーンは、二度目の陥落をした。

 カールは、首都を救いに行こうとはしなかった。彼の軍は、ドナウ川河畔に残り、態勢を立て直した。

 川を挟んで、向こう側には、フランス兵が野営している。川にかかる橋は、オーストリア軍が、爆破していた。敵は、川に筏や浮き橋を並べて、なんとか対岸までわたろうとういう戦法だ。

 だが、これもオーストリアの工作隊が、上流から丸太を流して、敵の浮き橋に、相当なダメージを与えていた。加えて、雪解けの水で、川はかなりの水量だ。
 今、フランス兵達は、浮き橋の修繕に余念がない。川の小島、ロバウ島にできたナポレオン砦も、静まり返っている。



 オーストリア軍のカノン砲が、一斉に火を噴いた。
 アスペルンの戦いが始まった。



 不意を突かれたフランス軍は、浮き足立った。一気に川まで押し戻されたかのように見えた。フランス軍の浮き橋は、オーストリア工兵の丸太放流作戦によって、既に危険な状態になっている。その上、オーストリア兵士の数は、フランス兵を凌いでいた。

 ランヌ元帥とサンティレール将軍が、軍の最前線に立ち、指揮を取った。ナポレオンの信任篤い、いずれ劣らぬ名将である。
 そもそも奇襲は、彼らの専売特許だった。それを、オーストリア側が、逆手に取ったのだ。フランス軍は、すぐに態勢を立て直した。敵兵達は、慌ただしく、マスケット銃に弾をこめた。

 その対価は高くついた。
 サン・ティレール将軍は、流れ弾に当たって即死。
 ランヌ元帥は、右足に砲弾を受け、瀕死の重傷を負った。


 日が暮れると、ナポレオンは、自軍をドナウ中洲の島に退却させた。


 ランヌ元帥の右足は、手の施しようがなかった。砲弾をまともに浴び、砕けてしまっている。
「おい! 生きろ! 頼むから生きてくれ!」
 駆けつけてきたナポレオンは、ランヌの体を抱きしめた。皇帝の軍服が血で赤く染まった。

 ジャン・ランヌは、ナポレオンと同い年。農家の小倅とも洗濯屋の息子とも言われる彼は、国民衛兵に志願し、最初からずっと、ナポレオンについていった。ナポレオンにとっては、部下というより親友だった。

 右足切断の緊急手術が行われた。しばらくは小康状態を保ったのだが、傷口が悪化し、10日後に死亡した。ナポレオンは、その体に取り縋って号泣したという。




 退却を余儀なくされ、さらには、親友と恃む大事な部下を失い、ナポレオンは、精神的にも、深く傷つけられた。
 オーストリア側の完全勝利ではない。だが、このアスペルンの戦役は、明らかに、フランス軍の敗北だった。ナポレオンの不敗神話に初めてついた、小さな、だが、確固とした汚点である。
 カールの、執念の一撃だった。







 アスペルンに続くヴァグラムの戦役でも、カールの軍は、執拗にナポレオン軍を攻め続けた。

 オーストリア軍が、これほど抵抗するとは、ナポレオンには、予想外だった。砲撃開始とともに、激しい雷雨に見舞われたのも、痛手だった。出兵間際の兵がずぶ濡れになり、初手から、フランス軍の士気は下がり気味だった。

 既に、イタリアからのウジェーヌ(ナポレオンの継子)の軍が、カールの弟の、ヨーハン大公軍を打ち破り、本隊に合流していた。だが、オーストリアの陽動作戦が功を奏し、フランス軍は、苦戦を強いられていた。

 ウジェーヌ軍に蹴散らされたヨーハン大公軍は、すぐに態勢を立て直した。今は、少し離れた場所からこちらへ向かっている。
 ヨーハン軍1万2千。これの到着が、戦いの雌雄を決することは、明らかだった。



 ……やるじゃないか。
 ……オーストリアの、貴公子が。
 肝胆相照らした仲の男の、粘り強い攻撃は、ナポレオンを奮い立たせた。

 フランス軍の動きは早かった。
 扇形になって展開していたオーストリア軍の中央部分にくさび形となって突撃し、銃剣攻撃を仕掛けた。すべてをこの部分にかけ、もはや退路を断つ勢いで、ナポレオンは全勢力を傾け、援護を命じた。

 隣の戦友と肩を組み合った歩兵達が、頭を下げ、しゃにむに進んでいく。敵方の銃撃でで隣の兵が倒れれば、すぐに間を詰め、何事もなかったかのように前進していく。

 オーストリアの騎馬兵が、円を描いて駆け、高い位置からフランスの歩兵を蹴散らす。すぐ、歩兵隊の背後から、竜騎兵が、全面に踊り出る……。

 血みどろの争いとなった。
 ついに、フランス軍は、オーストリア軍の中央突破に成功した。


 カールが待ちに待った、ヨーハン軍の先遣隊が到着したのは、その直後のことだった。ヨーハン軍が、あと3時間早く早く到着したのなら、勝利はオーストリア軍の手にあったかもしれない。


 死傷者の数は、甚大だった。
 トウモロコシの実る畑に、両軍の兵士の死体が、分け隔てなく転がっていた。



 叩いても叩いても這い上がってくるオーストリア軍に、ナポレオンは苛立ちを募らせていた。親友とも呼べる部下を殺され、怒りを滾らせていた。
 今回は、ウィーン市街への爆撃が行われた。この爆撃のショックで、音楽家のハイドンは死期を早めたとも言われている。



 夏から秋の終わりにかけてウィーンに滞在したフランス兵たちは、帰国するに当たり、見せしめに、市壁の一部を破壊した。無残に積まれた瓦礫は、それから10年近く、そのままになっていた。







 この敗戦を機に、カールは、実戦から退き、やがて、役職からも遠のいていった。
 我ながら打たれ弱い、と、カールは思った。
 だが、今は、絶望しかなかった。
 恋も戦も。
 うまくいかない時は、全てがうまくいかないものだ。そういう時は、ただ、頭を低くし、身を伏せて待つしかない。
 それが、ハプスブルク家の人間の処世術だった。



 勝ったナポレオンは、カールの兄フランツ帝に、皇女マリー・ルイーゼを差し出すよう、要請してきた。
 ジョゼフィーヌを離婚し、皇妃にするというのだ。



 ウィーンで行われた代理結婚式の新郎役は、新婦の叔父、カール大公が務めた。新郎ナポレオン自らの指名だった。
 相変わらず、勝者ナポレオンは、カールに「友情」を感じているようだった。






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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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