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文字数 2,238文字


【1841年、画家エドゥアルド・グルクからのモル男爵への手紙】



もうあと少しで、エルサレムです。フェルディナント帝(皇帝)は、ことのほか、ご機嫌麗しく、旅は、順調に続いています。

そもそもオーストリア皇帝は、エルサレム王の称号を持ちます。中東方面へ軍事力を印象づけることは不可欠です。今回の行幸(みゆき)も必ずや成功し、我らが若き皇帝、フェルディナンド帝の威信は、いや増すばかりでしょう。

これも、モル男爵。あなた様の綿密な企画立案あってのことです。


(フェルディナント帝:皇帝フランツの長男。カール大公、ヨーハン大公の甥)


同じように皇帝の旅に同行していらっしゃるのに、モル男爵、あなたに手紙を書くのは、妙な気がします。けれど、あなたには、行幸の副官としての重要なお仕事がおありです。また私にも、ハプスブルク王家の威信を記録するという、神聖な、また、画家として最も誇らしい責務があります。なかなか顔を合わせることも叶わないのも致し方のないことかもしれませんね。


思い起こせば、1830年、フェルディンナント帝のハンガリー王戴冠を皮切りに、私は、皇帝の公式行事を描くという名誉ある任を担ってきました。

私の採用は、かの名宰相、メッテルニヒ侯のご推挽によるものだと聞きます。父ヨーゼフ・イグナウスと共に芸術活動に勤しんでいた私に、宰相が目を留めて下さったそうです。名誉なことです。




ですが、必ずしも、私の本分は、記録画家ではなかったような……。いいえ、お忘れ下さい。フェルディナント帝の信頼を、メッテルニヒ侯のご支持を、決して無碍にするわけにはまいりません。それに、この仕事をしていなければ、あなたと出会えなかったのですから。

モル男爵。あなたと出会ったのは、フェルディナンド帝(皇帝)の、ボヘミア王戴冠の頃でしたね。あれからもう、4年が経ちました。2年前には、ロンバルト・ヴェネト王国への戴冠旅行も、ご一緒しましたね。あれは、私の中で、よい思い出として残っています。


皇帝とともに、あちこち旅する身でありながら、宮廷画家に取り立てられぬまま、ここまできました。恐らく、この先も、そうでしょう。私はあくまで、行幸の記録画家に過ぎないのです。
そういえば、銀板を用いて、人の姿を写し取ることができるのだそうですね。いずれ、私の仕事も、そうした化学技術に取って代わられるのかもしれません。
いうなれば、私は、ただの技術屋です。宮廷の方々の高貴なお姿を写し取ってはおりますが、決して、芸術家ではないのです。


5年前、ナポレオンの専属画家だったアントワーヌ・ジャン・グロが、セーヌ川に身を投じたのを、ご存知ですか?「人生に疲れ、残った才能からも耐えうる批判からも、裏切られた。彼は全てを終わらせようと決意したのだ」と書かれた紙切れが、彼の帽子の中から発見されたそうです。

画家は、描きたいものを描いてこそ、画家なのではないでしょうか。私には、彼ほどの才能はありません。しかし、ナポレオンの専属画家として、ついに己の才能を消費しきってしまったジャン・グロの末路は、身につまされるものがあります。


(アントワーヌ・ジャン・グロ:「アルコレ橋のナポレオン」など)



私の絵は、偉大なる皇帝フェルディナンド帝の治世の記録です。後世へ向けて、皇帝の偉業を伝えるものでなければなりません。細部まで。正確に。高貴な方の、一人の描き落としもあってはいけません。また、服装、宮殿の装飾、馬具さえも、正確に描き込む必要があります。戸外であっても、天気、季節、風向き……全てを正確に再現しなければなりません。そのために、かなりの緊張を強いられることは事実です。

けれど、今、私の描く絵の、空は澄み、空気は明るい輝きに満ちています。たとえ曇天の日の記録であっても、私の絵は、透明な光を宿しています。

モル男爵。深甚なる感謝を、あなたに。全ては、あなたのお蔭です。
あなたは、一介の画家であった私に、なにくれとなくよくして下さり、高貴な方々に立ち交じる緊張を和らげて下さいました。また、絵の具や紙など、さまざまな素材の調達・補充にも尽力して下さり、これがなければ、私は、充分に責務を果たすことができず、お咎めを頂戴してしまったかもしれません。

いいえ。
そんな打算的な理由ではありません。
モル男爵。あなたは、私を気にかけて下さった。常に絵の外に存在し、己を消していた私を、あなたは初めて、見つけて下さったのです。あなたの目が私を追い、私の仕事を気にかけて下さる。それ以上の幸せが、あるでしょうか。

あなたと出会って、私は、変わりました。
「私の最高の守護者」(Mein höchster Gönner)
こう呼ぶことを、お許しください。


ですが、あなたは、そうすべきではなかったのです。少なくとも、今回のシリア行きの前……ああ、頬が赤らんできました。もうすぐ、40歳になるというのに。ですが、あなたの屋敷(ヴィラ)で過ごした、あの、6週間のことを、私は、生涯、忘れません。

イタリアの鮮やかな色彩、乾いた風、明るい太陽。ヴィラ・ラガリーナでの日々は、私の人生で、最高の時間でした。あなたは、この幸せな関係がこれからも続くと、約束して下さいました。

けれど。
あなたの胸には、私ではない方がおられるのを、私は知っています。
ああ、だめだめ、隠しても。
ヴィラ・ラガリーナの、あなたの屋敷の私設図書館で、私、見つけてしまいましたから。
あなたの、手記を。
あの、有名なナポレオンの息子、ライヒシュタット公に関する……。







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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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