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文字数 873文字

 暗い宮殿の廊下を、一人の青年が歩いてくる。しなやかな長身が、しかし、俯きがちに、何か、詩のようなものを口ずさんでいる。



 考えても見よ 私は孤児(みなしご)だったのだ
 神は心あたたかくも私を王座に連れてきた
 私は知らない 父の名がなんと言うかを
 それなのに 私は王の息子なのだ




 冬の夕暮れは早い。斜めに差し込む陽の光が、くるくるとした巻き毛を、金色に浮き上がらせていた。広く秀でた額の下の青い目は、澄んだ輝きの底に、暗い陰を沈ませて見えた。


 王の息子……プリンスからは、深い寂寥がにじみ出ていた。同時にその、ぞっとするほどの美しさは、見る者の胸を、深く穿った。

 詩が、途絶えた。
 孤独な姿が、凄絶なまでに、凛と佇んでいる。すらりとした美貌の青年は、深い哀しみと憂愁に、色濃く縁取られていた。












 彼は、かつて帝王だった男の息子だった。戦で父は負け、絶海の孤島で死んだ。幼いプリンスは母の国の宮廷に引き取られた。母はその国の皇女だった。

 すぐに母は領土を与えられ、彼をおいて遠くへ去った。そこで母は情夫との間に子を生んだ。

 皇女の息子である彼は、この国のプリンスでもあった。しかし彼は籠の鳥だった。宮廷を出ることは許されない。

 彼は、高貴な囚人だったのだ。

 宮廷は、父への憎悪で満ち満ちていた。彼の父は、この国にとっては侵略者だったからである。皇女である母は、生贄(いけにえ)として父の元へ嫁がされ、彼を生んだ。

 人々は、彼の中に流れる父親の血を警戒した。教育の名目でつけられた家庭教師を初め、多くのの監視役がつけられた。

 幼いプリンスは、たったひとりで父への反感と戦い、己の自我を守らねばならなかった。
 彼は、父への敵意の中で己を隠し、成長していった。






*~*~*~*~*~*~*~*~

冒頭場面の詩句は、『マリー・ルイーゼ』(塚本哲也、文春)より。


¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
※先週の火曜日(8/3)、ナイペルクの話と間違えて、この話をアップロードしてしまいました。なお、掲載の画像を取り換えています。
 いろいろすみません……。
 本日は、続いてもう1話、公開致します。






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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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