3 入れ違い

文字数 2,935文字




 フランスのルイ16世を父に持ち、オーストリアのマリー・アントワネットを母に持つマリー・テレーズは、カールの従妹に当たる。

 1794年、テルミドールのクーデターが起き、恐怖政治に終止符が打たれた。翌年成立した総裁政府は、フランス人の人質(*1)と引き換えに、タンプル塔に幽閉されていたマリー・テレーズをオーストリアに引き渡した。

 兄の皇帝は、ウィーンにやってきた従妹を、カールの妻に勧めた。
 一方、ロシアに亡命中だった、ルイ16世の弟、ルイ18世も、自分の甥と彼女の婚姻を目論んでいた。
 父方の従兄、アングレーム公と、母方の従兄、カール。
 マリー・テレーズは、父母双方の従兄から、結婚相手と目されたのである。

 ルイ18世は、(アングレーム公)の尻を叩き、何通も手紙を書かせた。なかなか愛の言葉を吐けない甥を、ルイ18世は、彼は、痛ましいくらい不器用だが、お前を思う気持ちは強い、と、弁護した。
 対して母方の従兄、フランツ帝は、戦争で留守の弟、カールに代わって、連日のようにパーティを催した。自分の妹や、後のエステルハージ夫人など、若い娘を話し相手として配し、オーストリアとの絆を深めようとした。(*2)

 だが、マリー・テレーズの心は、最初から、フランスのものだった。彼女は、父方の従兄、ブルボン家のアングレーム公を選び、ウィーンから出ていった。



 その後、長いこと、カールは、妻を娶らなかった。
 彼がようやく結婚したのは、従妹の結婚から16年後、彼が、44歳のときのことだった。



 今まで、従妹(マリー・テレーズ)に会いに行かなかったのは、8年前に亡くなった妻、ヘンリエッテに気遣った為ではない。
 それは違うと、カールは思う。

 亡くなった妻との間には、5人の子がいる。妻は、猩紅熱に罹った子の看病をしていて自らも感染し、亡くなった。
 彼女は、プロテスタントだった。厳格なカトリックであるハプスブルク家が初めて迎えた、異教徒の配偶者だった。彼女を、ハプスブルク家代々の墓所(カプツィーナ礼拝堂)に葬るには、異論が出た。
 ……「生きていた時に我々と一緒にいた者は、死して後も、一緒にいるものだ」
 兄の皇帝の一言で、ヘンリエッテは、カプツィーナに葬られた。今でもそこで、カールを待っていてくれているだろう。

 違う。
 何があろうと、彼女との絆は、びくともしない。
 それならなぜ、自分は、フランスから亡命してきた従妹(マリー・テレーズ)に、一度も、会いにいかなかったのだろう……。



 カールは、彼女を、ライヒシュタット……フランツ……に会わせたかった。
 ナポレオンと、彼の姪、オーストリアの皇女の間に生まれた息子に。
 父の国(フランス)母の国(オーストリア)の間に揺れる彼に、マリー・テレーズなら、的確な助言を与えられるのではないかと思ったのだ。


 ナポレオン生存中から、カールの元には、ひっきりなしに、密告書が届けられた。
 ブルボン家が、ライヒシュタット公フランツ(ナポレオン2世)への刺客を差し向けた……または、暗殺計画がある……、というものだ。

 カールは、ナポレオンの「親友」と見なされていた。ナポレオンの親族をはじめ、ボナパルニスト達は、皇帝亡き後までもカールを頼っていた。というか、彼しか、繋ぎはいなかったのだ。
 ウィーンの帳で覆われた、ナポレオンの唯一の、「正統な息子」との間の。


 ブルボン復古王朝は、白色テロを巻き起こした。両親と弟、叔母を殺されたマリー・テレーズは、特に容赦がなかった。
 百日天下の末ころには、ナポレオンの26元帥のうち、2人が殺された。ブルボン家が、晴れてパリに返り咲くと、さらに2人の元帥と公爵一人が死刑に処され、250人以上が、禁固刑になった。

 もちろん、全てが、マリー・テレーズの差し金であったわけではない。

 だが、彼女が、ネイ元帥の妻の泣きながらの嘆願にも全く取り合わなかった話は、オーストリアにも伝わってきていた。
 また、マリー・テレーズは、フランツの父(ナポレオン)を、ひどく嫌っていた。かつてのフランスの帝王を、革命の継承者、そして王位の簒奪者と見做していたからだ。


 ……マリー・テレーズは、ナポレオンの息子(フランツ)の死を、望んでいたのか。

 それでも、カールは彼女を、フランツに会わせたいと思った。
 それほど、二つの国の狭間で思い悩む青年の姿は、凄絶だった。



 結果として、彼女は、間に合わなかった。
 マリー・テレーズが、オーストリアに来たのは、1832年10月に入ってからのことだった。
 フランツは、その年の、7月に、亡くなっている。

 まるで、彼が死ぬのを、待っていたかのようなタイミングだった



 テシェンに隠居しているカールの元に、時折、アングレーム公夫妻の穏やかな暮らしぶりが、伝わってきた。
 夫妻は、子どもに恵まれなかった。アングレーム公の亡くなった弟の忘れ形見達を、まるで実の子のように、育てているという。
 朝、夫妻は馬車で礼拝に出掛け、午後には、一緒に散歩をする。
 今まで戦いに明け暮れていたアングレーム公は、静かな暮らしに我慢がならず、パリで殺されなかったことだけが心残りだと豪語していると聞く。

 去年、シャルル10世が亡くなった。マリー・テレーズは、名目上、フランスの王となった夫に敬意を表して、その入退室の折は、常に、起立するという……。



 カールは、アングレーム夫妻に会いにいくことはしなかった。
 ……。







 ……夫婦が、同じように年をとるとは、どんな気持ちだろう。
 前を歩く夫妻を目の端に収め、カールは思った。
 ヘンリエッテとは、ありえなかった。彼女は、カールよりも、26歳も年下だったからだ。妻はいつでも、庇護されるべき存在だった。

 不意にカールは、先を歩く二人の前に立ち塞がりたい衝動に駆られた。のんびりと歩く老夫妻の前に立ち、その顔を、しげしげと覗いてやりたく思ったのだ。
 特に、妻の顔を。
 美しいまま死んだヘンリエッテと違い、マリー・テレーズの顔には、幾多の皺が浮かんでいることだろう。皮膚はたるみ、唇の端が、意地悪そうに、垂れて見えるかもしれない。

「……」

 だが、彼は、それをしなかった。
 少しだけ自分より高い息子の肩に己の肩を並べ、わざとゆっくり、歩き続けた。







 7年後。マリー・テレーズの夫、アングレーム公が亡くなった。
 アスペルンの英雄、カールが没したのは、それから、さらに3年後のことだった。







 翌年1848年2月。
 再びパリに、革命が起きた。
 国王ルイ・フィリップは退位し、イギリスに亡命した。











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*1 フランスの人質
革命戦争前期のフランス戦争大臣ボーノンヴィル。彼が人質となったいきさつについては、
「ダヴー、血まみれの獣、あるいはくそったれの愚か者」5話「裏切り者デュムーリエ」に
https://novel.daysneo.com/works/episode/12b8e7bf299bc5ebd36f53e235ffa34b.html


*2 マリー・テレーズと二人の従兄
「三帝激突」「ローマ帝国の貴公子」の章に
https://novel.daysneo.com/works/episode/2322e54245c3682d6313a1e442b47d5e.html






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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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