3 サイコロの目

文字数 2,425文字

 まもなく、オーストリア皇室の皇女と、ポルトガルの王太子との間に、縁談が持ち上がった。

 ポルトガルは、ナポレオンの大陸封鎖令に反対したため、フランス軍の侵攻を受けた。この為、1808年、王室は、植民地だったブラジルへ避難した。
 これに伴い、ブラジルのリオデジャネイロは、ブラジル・ポルトガル連合王国の、首都となった。人口が増え、高い文化も持ち込まれた。


 レオポルディーネは、姉妹の中で、一番聡明な娘だった。植物学や鉱物学など、さまざま学問に興味を持っていた。ポルトガル語を含む、数ヶ国語にも堪能だった。
 その聡明さを見込んで、外相メッテルニヒは、皇女レオポルディーネに、白羽の矢を立てた。

 しかし、ポルトガル王室の皇太子、若きドン・ペドロには、不道徳だという噂があった。非常に激しやすい性質だとも。
 そんなところへ娘を嫁にやるのは、父のフランツ帝は、嫌だった。不幸な結果になるのは、長女のマリー・ルイーゼ(ナポレオンの妻)だけでたくさんだ。

 「『戦いは他の者に任せよ。オーストリア。幸いなるかな、汝は結婚せよ』です」
メッテルニヒは、しぶる皇帝ををかき口説いた。
「今ならまだ、戦わずして、ポルトガルと手を結ぶことができます。その上、新大陸の珍しい資源も手に入る。血を流さずに世界に君臨する。それが、オーストリアのやり方ではないのですか?」

 最後まで反対したが、父帝は、とうとう、メッテルニヒに押し切られた。




 1817年5月、レオポルディーネは、遠くブラジルへ旅立った。顔も見たことのない、ポルトガル王室のドン・ペドロと結婚する為に。
 とんでもない未開の地ではないということだが、それが救いといえようか。何しろ、海を渡っての輿入れである。
 しかも、レオポルディーネは、夫となる人を、肖像画でしか見たことがない。



 泣くことしかできません。メッテルニヒは、リボルノ(イタリアの港町)までエスコートしてくれましたが、それが嬉しかったと思う? 私達皇女は、サイコロのようね。投げられた目によって、幸福も不幸も決まるんだわ。

 彼女はこう、姉のマリー・ルイーゼに書き送った。










 メッテルニヒは、主である皇帝の二人の娘を売った。
 マリー・ルイーゼを、ナポレオンに。
 6歳年下の妹、レオポルディーネを、ポルトガル王室、遠く海の向こうの、ブラジルへ。








 だが、案に相違して、ドン・ペドロは、心から花嫁に尽くす、優しい夫だった。それは、姉マリー・ルイーゼの嫁いだナポレオンと同じだった。人食い鬼と恐れられた義兄は、しかし、若い妻の言いなりだったという。
 レオポルディーネの夫も、そうだった。夫は、彼女より1つ年上なだけで、姉夫妻のような年の開きはない。だが彼は、花嫁の白い肌に吸い寄せられ、深い教養に圧倒された。
 初めのうちは。




 その頃、王室のいなくなったポルトガルは、イギリスの保護国の扱いになっていた。そもそも、ポルトガルは、フランスと戦った戦勝国の筈だ。それなのに、ブラジルに逃げた国王はいつまで経っても帰ってこず、ナポレオン没落後も、イギリスの保護を受け続けているとは……。(ポルトガル)に残った人々の、不満が募った。

 1820年、ついに、ポルトガルで、武力による自由主義革命が起きた。彼らは、国王の帰国と、立憲制を求めた。
 その翌年には、ここ、ブラジルでも、在留ポルトガル兵が決起した。レオポルディーネが嫁いで、4年が経っていた。
 この時、決起軍との交渉に当たったのは、彼女の夫、皇太子ドン・ペドロだった。

 自由主義革命を受け、イギリスはポルトガルから手を引いた。
 1822年、ドン・ペドロの父、ジョアン6世はじめ王室は、ポルトガルへ戻った。ジョアン6世は憲法を受け入れ、三権分立を認めた。ポルトガルは、絶対王政から、立憲君主国となった。


 皇太子ペドロは、摂政として、妃レオポルディーネとともに、ブラジルに残った。


 ところが、母国ポルトガルの革命政府は、ブラジルの地位向上を認めず、あまつさえ、摂政ドン・ペドロを、見下したような態度を取った。革命政府は、ペドロの権利を剥奪し、ポルトガルへ帰るよう、要請してきた。

 ……これではブラジルは、また、搾取されるだけの植民地に戻ってしまう。
 ブラジルの人々の間に、不安が沸き起こった。

 彼らに、真っ先に賛同したのは、王太子妃、レオポルディーネだった。学識豊かな彼女は、時代を正確に読み、その上で、ブラジルの人々に、深い理解と愛情を示した。




 レオポルディーネは、夫、ペドロを励まし、独立を促した。


 「わが血、わが栄光、わが神を、私はブラジルの自由に与えることを誓う。独立か死か!」
 同じ22年の10月、ペドロは、ブラジルのポルトガルから独立を宣言し、ブラジル皇帝ペドロ1世として、王位についた。








 だが、この頃から、レオポルディーネの父(オーストリア皇帝)が抱いた危惧は、現実のものとなってくる。

 そもそも、結婚前に、ペドロには、情婦がいた。結婚に際し、ペドロの父(ポルトガル王)が、強引に別れさせたという過去があった。オーストリア皇帝(新婦の父)の不快を恐れてのことである。

 再びペドロは、愛人を作り、その存在をおおっぴらにするようになった。彼は、愛人を宮廷に引き入れ、非道にも、妻付きの高級女官とした。(レオポルディーネ)には、十分な資金を与えず、宮殿から出さなかった。
 ついには、情婦の産んだ子を、正妻(レオポルディーネ)の産んだ子と、同じゆりかごに入れ、同じ教育を受けさせるまでになっていく。

 次第に、夫の、妻に対する態度は、苛酷になっていった。激したあまり、手を挙げたことさえある。


 それでも、レオポルディーネは、夫に仕えた。
 子を産み続け、彼らの養育に心を砕いた。たとえ、わが子と(めかけ)の子を、同じ館、同じ教育で育てるのであっても。
 レオポルディーネは、決して、夫を裏切らなかった。悪口さえ、口にしなかった。
 子を産み育て、政務に励み、ハプスブルクの女としての務めを、懸命に果たし続けた。








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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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