4 蜂起

文字数 1,614文字




 皇帝フランツ亡き後、厳正なしきたりに則って、皇位は、長男、フェルディナントが継いだ。フェルディナントは、宮廷の、誰からも好かれていた。だが、政務のできる体質ではない。彼には、自立した生活さえ、難しかった。
 補佐役には、皇帝の弟フランツ・カール大公、皇帝の叔父ルードヴィヒ大公、宰相メッテルニヒ、内相のコルヴィラートがついた。

 フランツ・カールは、無気力な大公だった。そして、ルートヴィヒは、おとなしかった。

 この人選が、メッテルニヒの手によるものであることは、誰の目にも、明らかだった。
 ウィーンは、依然として硬直したメッテルニヒ体制の元にあった。


1735-40




 国民の生活は、逼迫していた。特に、リーニエと呼ばれる土塁の外側に住む労働者(プロレタリアート)達は、まるで、家畜のような生活を強いられていた。

 それは、土塁(リーニエ)の内側に住む市民(ブルジョワ)と、対称を成していた。
 観劇を楽しみ、美食を味わうブルジョワ達は、未だ、プロレタリアの苦悶に耳を塞ぎ、ビーダーマイヤーと呼ばれる小市民的繁栄の中にいた。



 1848年2月、再びパリで起きた革命の波は、今度こそ、オーストリアの市民を揺り起こした。
 同じ年の、3月。

 ハンガリーのコッシュートが、議会で演説をした。彼は、メッテルニヒ体制を非難し、ハンガリーのオーストリアからの独立を訴えた。そして、オーストリアの他の民族にも、同じような改革を、強く勧めた。





 オーストリアの知識人たちも黙ってはいなかった。ウィーン大学で学生の大集会が開かれ、教授を巻き込んで、出版・教育・信仰の自由を請願する書類を作成した。
 ブルジョワもまた、工業・農業・商業の団体組織についての請願書を提出した。





 これに対し、皇帝フェルディナントの名で、オーストリア帝国の国会が招集された。人々は、請願書を持って、ウィーンに押しかけた。

 押し寄せた大群衆の中で、突如、友人に肩車された男が、演説を始めた。
 彼は、平凡な医局員だった。
 演説の、声は震え、内容は、ありきたりな自由主義に基づくものだった。

 だが、人々は気がついた。
 これが革命であることに。



 領邦議会の前に集まった群衆の前に、馬に乗った3人の将校が進み出た。
「家に帰れ」
真ん中の将校が命じた。

 カール大公の息子、アルブレヒト大公だ。かつて、父のカール大公は、アスペルンの勝者と呼ばれた。息子もまた、クストツァの勝者と呼ばれていた。
 父が、怪物ナポレオンの勝利神話に最初の汚点を付け、国民の誇りを守ったのに対し、息子の勝利は、ごく部分的で、目立たぬものだった。


185437




 「へん、誰が!」
群衆の誰かが言い返した。
 多くの声が、賛同した。
 彼らは、近くに落ちていた小石や木屑を拾って、将校たち目掛けて投げつけた。

 木片が一つ、一番右側の馬に当たった。臆病な馬は、恐怖に嘶き、後ろ立ちになった。不意のことで、馬上の将校は、危うく落馬しそうになった。後ろにずれた鞍から尻を浮かせ、馬の首にしがみつく。

 ひどく不格好だった。群衆の中から、どっと嘲笑が沸き起こる。

 アルブレヒト大公は、唇を噛み締めた。
 やにわに彼は、手綱を引き、馬を反転させた。石畳に蹄の音も荒く、陣営に引き上げていく。
 両側にいた将校達も、それに続いた。

 群衆は喜び、ますます囃し立てた。大仰な手振りで踊りだし、敵に背を向けた将校たちを、嘲る者さえいた。
 
 束の間の勝利だった。

 直後、銃剣を携えた大隊が出動してきた。
 指揮官の大尉が、発砲命令を出した。

 軍は、民に向けて、発砲した。





 その頃、市外には、土塁(リーニエ)の外から、続々と、貧民階級である労働者が集まっていた。
 彼らは、彼らを搾取する工場(職場)を焼き払い、パン屋や肉屋から、略奪の限りを尽くした。

 そこへ、市内から、発砲の音が聞こえてきた。
 プロレタリアートによる暴動は、手をつけられなくなった。






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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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