3 貴賤婚

文字数 2,874文字



 郵便局長、ヤーコプは、困惑しきっていた。
 彼は早くに妻を亡くしていた。長女のアンナが、母に代わり、弟や妹の世話をしてきた。苦労をかけた自覚がある。その分、彼女には、幸せを掴んでほしかった。
 ハプスブルクの大公が、自分の娘を、しきりと気にかけていることは、ヤーコプも気がついていた。年齢は、22歳も離れている。もはや、親子である。これが、他の男であったのなら、町の荒くれ共の力を借りてでも、追っ払うところだった。
 だが、相手は、大公である。オーストリアのプリンスだ。その上、郷土の産業の育成に、尽力してくれている。
 滅多なことはできなかった。

 手をこまねいているうちに、相手は、なんと、結婚を申し込んできた。

 「それは、妾として差し出せということですか?」
 ヤーコプの声が震えた。大事な娘を、慰みものにするつもりではなかろうかと、危惧した。アンナは、大公に比べたら、ただの田舎娘だ。それでも、彼の大事な娘であることに、代わりはなかった。

 ヤーコプの反応に、大公は、驚いたようだった。
「いや、私は、生涯の伴侶として、彼女を妻に娶りたいのだ」

 それから大公は、いかに自分が、アンナを愛しているかを、縷縷として述べ始めた。それは、父親としては、聞いていて辛いものがあった。しかも相手の男は、自分と同じ年代なのだ。
 途中から、ヤーコプは、息が、苦しくなってきた。

 やっと愛についての講義が終わったと思ったら、今度は、誠意について語り始めた。熱を帯びたような目をしている。
 これは本物だと、ヤーコプは思った。この人を信頼してもよいのではないかと、悟った。
 ……この大公殿下は、変人なのやもしれぬ。
 ……他に、いくらでも、きれいなお姫様を、妻に出来るだろうに。
 ……しかし、変人だからこそ、生涯に亘って、一人の田舎娘だけを、愛し続けるのやもしれぬ。
 そう考え、納得した。







 娘の父親は説得できた。
 問題は、ウィーンの、兄の皇帝だった。
 ヨーハンが暇さえあれば、シュタイアーマルク州へ出かけていることは、宮廷では、よく知られていた。すでに、大公の田舎娘への色恋沙汰が、醜聞(スキャンダル)になりかけていた。







 メッテルニヒは、一層の警戒心を募らせていた。皇帝の信頼を得て、彼は、1821年に、宰相になっている。
 田舎の町で、大公ヨーハンが、村人たちと楽しそうに談笑したり、農業指導をしたり、また、自分の領地に車両工場を造ったりしていることを、メッテルニヒは、探り出していた。

 ……チロルの時と同じことをするつもりか。

 メッテルニヒはまた、大公の、村娘への執着も、ほぼ正確に把握していた。ただ、それが、結婚に繋がるとは、この高官は、予想もしていなかった。
 30歳を大幅に過ぎた大公にふさわしい姫を、そして、オーストリアにさらなる繁栄を齎してくれる子宮を、メッテルニヒは、ヨーロッパ各国の王族の中から、物色中だった。







 父親のヤーコプに約束した通り、ヨーハンは、アンナを日陰の身にする気はなかった。1823年2月、ヨーハンは、兄の皇帝と直接対面し、全てを打ち明けた。その上で、彼は兄帝に、結婚の許可を求めた。

 皇族には、

という言葉がある。
 皇族は、必ず、自分の身分と釣り合った者と結婚しなければならない。
 相手がたとえ、高位の貴族であっても、貴賤婚は成立する。皇族の結婚相手は、領土領民を持つ、一国の主でないといけないのだ。

 ……幸いなるかな、オーストリア。汝は、まぐわうべし。
 そうやって、ハプスブルク家は、戦わずして、領土を拡げてきた。
 自分の恋愛の成就のみを考えて身を投ずる貴賤婚は、だから、国家への、重大な裏切りとなるのだ。
 ヨーハンは、大公の位を返上するくらいの覚悟だった。

 愛に関する弟の長弁舌が終わると、兄フランツは、目をぱちぱちさせた。
「そのような結婚が、どういう結果を齎すか、よく考えてみるといい」

「だから、彼女のいない人生は、私にとって、墓場同然なんです! 彼女は、私の女神、私にとって全てなんです!」
兄の言葉に、ヨーハンは食いついた。
「宮廷士族は、民を、同じ人間としてみていないんだ!」
ついに、激して、叫んだ。
「それは、誤った考え方だ。民も、貴族や皇族と、なんら変わることはない。否、純朴な分、高貴であるとさえいえる!」

「誰も、反対はしていない」
ぼそりとフランツが言った。

 はっと、ヨーハンは息を呑んだ。

 俯いたまま、兄は続けた。
「大事な人と共に過ごしたいという、お前の気持ちは、よくわかる。家庭の重要性は、私も理解しているつもりだ。家庭がしっかりしていなければ、王は……男は、よい仕事ができない」

 この皇帝は、極めて家庭的な男だった。戦争に出ている間も、毎日のように、ウィーンの皇妃に手紙を書いていた。戦地で、子どもの

の心配をしていたこともある。

「兄上、それでは……」
 ヨーハンの目が輝いた。すばやく彼は、用意してきた結婚承諾書を差し出した。
「この書状に、ご署名を」
「いや、その、まあ……」
 優柔不断に後退るその手に、強引に押し付ける。

 兄帝は、ため息を付いた。
「検討することを約束する」







 皇帝が、弟を呼び出したのは、それから2ヶ月経ってのことだった。
 彼は、ヨーハンに、結婚の許可を与える旨を、文書で通達した。
 ただしそれには、条件が付帯した。
 アンナ・プロッフルと、彼女が生む子どもたちには、王族としての地位も年金も与えられない、というのだ。


 実は、この2ヶ月の間、フランツ帝は、必死で、ハプスブルク家における貴賤婚の先例を調べ上げていた。
 彼が参考にしたのは、16世紀半ば、フェルディナント一世の次男、フェルディナント大公と、豪商ヴェルザー家の娘、フィリッピーネとの結婚だった。
 ……なんだ。ちゃんと先例があるじゃないか。
 記録を見つけた時、極めて官僚的なフランツ帝は、大いに安堵した。
 相手が豪商の娘であろうが、郵便局長の子であろうが、貴賤婚であることに変わりはない。弟の結婚についても、先例と同じように、ことを進めるだけだ。

 妻子を皇族として認めないというのは、このフェルディナント大公とフィリピーネの結婚に倣った条件だった。
 さらに、皇帝フランツは、宮廷の混乱と誹謗中傷を考慮した。当分の間は、正式な結婚式は見合わせ、結婚の事実は極秘にするよう、命じた。







 ヨーハンが村娘に結婚を申し込んだことは、いつの間にか、宮廷中に広がっていた。
 妾に囲ったのではない。
 結婚を申し込んだのだ。平民の娘に。
 これは、大変なスキャンダルだった。
 憤激のあまり、この結婚をなんとか阻止しようとする策謀まで、渦巻いていた。

 それでも、アルプスの麓で、アンナと過ごす日々は、幸せだった。彼女の懐の深さに、彼は甘え、彼女は彼を、頼もしく慕った。

 ヨーハンは、ウィーンで雑務を片づけ、シュタイアーマルクへと飛んで帰る、という生活を続けた。
 宮廷の人々は、大公はそのうち、「村の情婦」に飽きて、その身分にふさわしい結婚をするだろうと、囁いていた。






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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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