3 レディー・キラーの贖罪

文字数 1,263文字


 ナイペルクは、できる限り、ウィーンのプリンス(ナポレオンの息子)と連絡を取った。
 前の結婚で得た自身の長男アルフレッドと次男フェルディナンドを、パルマとの連絡役にし、頻繁に手紙を届けさせた。
 彼の三男グスタフは、プリンスと同じ年だった。それで、プリンスの同年代の遊び相手として、ウィーンに残した。



 いつだったか。
 家庭教師の厳しい教育に音を上げ、プリンスが、フランス語を学ぶのがいやになった、と言ってきたことがあった。

 長らくウィーンで暮らすうちに、彼のフランス語は、次第に怪しくなっていった。
 話す方はまだいい。
 だが、書くのは、苦手だという。

 ナイペルクは、返事を書いた。


 ……ナポレオンがフランスを治めるのに使った、栄光ある言葉。そして、彼が、フランス軍を勝利に導いた号令は、何語で発せられましたか?


 賢いプリンスは、それだけで、自分には、フランス語を学ぶ理由があることを、悟ったようだった。
 家庭教師からは、頑固な彼に、勉強させることに成功したと、賞賛の手紙が送られてきた。



 だが、こんなことで、ナイペルクの罪悪感は消えはしなかった。
 ……自分とマリー・ルイーゼとの結婚は、人を、不幸にばかりしてきた。

 彼は、幼いプリンスから、母を奪った。
 妊娠、そして流産を繰り返し、マリー・ルイーゼは、5歳の別れからの12年間で、5回しか、ウィーンの息子の元を訪れていない。これは、いかにも少なすぎた。パルマとウィーンは、早馬なら、5~6時間ほどで行ける距離なのに。
 毎回、別れの時、母を見送るプリンスの泣き顔が、ナイペルクの胸に、辛く蘇る。


 ……いかなる手段を講じても構わない。

 皇帝命令だと思っていたそれは、ただの勘違いだった。ただの勘違いで、彼の先妻、テレサは死に、マリー・ルイーゼは……、
 ……ナポレオンを裏切った。

 確かに、彼女とナイペルクの結婚は、ナポレオンの死んだ後である。ほんの、3ヶ月後。
 だから、重婚罪には当たらない。

 しかし、そんなのは、言い訳に過ぎない。

 最初の子ども、アルベルティーナが生まれたのは、ナポレオンの死の、4年も前のことだ。
 次の息子、ヴィルヘルムが生まれたのも、ナポレオンの生存中のことだった。ナポレオンが死んだのは、彼の誕生の、2年後だった。

 マリー・ルイーゼがパルマで産んだ子達は、母と父のことを、「シニョーラ」「シニョール」と呼ぶ。両親の結びつきは、人に知られてはならない関係だったからだ。

 それは、ナポレオンが死んでもかわらなかった。
 なぜなら、貴賤婚だから。
 皇女は、領土を持たぬ者との結婚は許されていない。



 下の男の子出産後も、マリー・ルイーゼは、妊娠を繰り返した、だが、出産に至ることはなかった。全て、流産や死産に終わった。
 4人目の女児の死産は、ナポレオンが亡くなった3ヶ月後だ。奇しくもこの日は、ナポレオンの誕生日でもあった。

 ……もはや、呪われているとしか思えない。

 相次ぐ流産や死産に、ナイペルクは怯えた。趣味に己を埋没させることのできる妻とは違い、次第に、心も体も、弱っていった。






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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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