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文字数 3,587文字
「こうして、二人は、誰も隔てることのできない、深い友情で結ばれ……」
「殿下殿下殿下!」
本をちらちらめくっていたスパイが叫んだ。
「ここには、違うことが書いてありますよ!」
「なんだって? 僕が読み違えたとでも言うのか?」
「なんというか……子どもの頃のカルロスは、もっとずっと、腹黒かったみたいですよ? ……」
……。
◇
ロドリーゴの放った矢が、王の姉の目の上に当たった事件より、以前。
その日もやはり、王宮の庭園に陽光が降り注ぎ、子どもたちの歓声が満ち溢れていた。
太陽めがけて、ギリシア風の柱が立ち並んでいた。太い円柱の影が、黒々と地面に落ちている。その陰に隠れるようにして、一人の少年が遊んでいる少年たちを見つめていた。
庭園の主役、王子カルロスである。
彼は劣等感に苛まれていた。ついさっき、かけっこでビリになったばかりである。恥ずかしさにそのままゴールを走り抜け、この円柱までやってきた。
「ほら、泣かないで」
打ち沈むカルロスの耳に、優しい声が聞こえた。
はっとして円柱の陰から身を乗り出すと、ロドリーゴが、年下の少年といるのが見えた。カルロスの鼻先を走ってゴールした子だ。
子どもは泣いていた。その肩を抱くように、ロドリーゴが慰めている。
「次を頑張ればいいじゃないか。そしたら、お父さんだって褒めてくれるよ?」
「僕の走り方がかっこ悪いって、父上は言うんだ」
「そんなことはないさ。ただ、そうだな。ちょっと肘を曲げてみたらどうだろう」
「こう?」
少年は、肘を直角に曲げる
「うん、いい具合だ。そしてそのまま、前後に振る」
「こう? こう?」
「そうそう。体を前に倒して」
少年の背中に手を添え、上体を前傾させる。
「それでいい。そのまま走ってごらん」
「わかった!」
言われたとおりに、上半身を前に傾けて肘を曲げ、少年は走り始めた。
「うまいね! 君は素質がある」
並んで一緒に走りながら、ロドリーゴが褒めてやっているのが聞こえた。
「さっきはね、肘で勢いをつけるやり方がわからなかったから、負けちゃっただけなんだ。もう、大丈夫。次は、勝てるよ!」
「ありがとう、ロドリーゴ!」
甲高い声で、年少の少年は叫んだ。
「僕は、本当は、走るのが早いんだぞー!」
叫びながら、緑の芝の上を、どこまでも走っていく。
笑いながら、ロドリーゴは立ち止まった。ぶらぶらと円柱の方へ歩いてくる。
「ロドリーゴ」
その彼の前へカルロスは姿を現した。
「……」
ロドリーゴの顔から笑みが消えた。彼は無言でカルロスを見た。
「僕にも、……そのう、走り方、というものを、教えて欲しい」
「殿下は、十分に美しい形を保っておられます」
「だが、僕はビリだった!」
「ビリではありません。集団のどこを走ろうと、殿下のいらっしゃる場所が、先頭です」
「違う!」
いらいらとカルロスは遮った。
「お前は……お前は、走るのが早い。剣も達者だし、学問も秀でている。僕は、お前と仲良くなりたいんだ。仲良くなって、いろいろ教えてもらいたい」
「恐れながら、殿下」
恭しく、ロドリーゴは頭を下げた。
「私には、そのような技量はありません。殿下にものをお教えするような、だいそれたことは、天が許しません」
「僕がいいと言っている! だいたい、お前は何だ! あの子のような格下の身分の者には優しくしてやるくせに!」
口をへの字に曲げ、さっきの少年が駆け去った方を睨んだ。
「僕は見てた! あの子には、あんなに親切に、肩を抱いて教えてあげてたじゃないか。なのに、なぜ、僕だけ除け者にするんだ?」
「殿下には、この国の一流の先生方がついていらっしゃいます。私ごときに口出しする隙はありません」
「そういうことではない!」
「さきほど殿下は、格下とおっしゃいました。私の家は、王家に比ぶべくもない、塵のような家柄です」
「お前は、ひどい」
とうとう、カルロスは叫んだ。
「僕がこんなに、お前のことを思っているのに!」
「……」
冷静な目で、ロドリーゴが、カルロスを見る。
厳かに、彼は言った。
「殿下。王子というものは、常に孤独に耐えねばなりませぬ」
……。
◇
「ちょっと待て」
プリンスが遮った。狼狽している。せわしなく本をめくりながら、尋ねた。
「そんなこと、どこに書いてある?」
「おとなになったカルロスが、言ってますよ。それを、ざっくりまとめると、こうなります」
平然とスパイが答えた。プリンスの手から本を取り上げた。
「ええと、……あ、ここだ。いいですか? カルロスがロドリーゴに言うセリフです」
本を目の高さに上げ、読み上げる。
「
……お前の仕打ちは酷かった。お前はつれなく
」
「そこは読んだけど……」
「だから、カルロスは、ロドリーゴの放った矢が伯母に当たった時、心の中で密かに喜んだんです。彼に変わって王の罰を受ければ、友の愛を勝ち取ることが出来るって」
「ううむ」
プリンスは唸った。
「ううむ」
「そうそう。これは、大人になってからの話ですが、王子はロドリーゴに、二人きりでいるときは、家来と主という茶番を演じるのは止めようと、提案しています。他に人がいる時は、これは、仮面舞踏会だからしょうがないと思おう、って」
スパイは本を読み上げた。
「
……だが、仮面の陰から己はお主に目で合図し、お主は通りすがりに己の手を握って、互いに心を通わすのだ……
」
「そうだ! 二人は、兄弟の契を結ぶんだ! 実に感動的な場面だ!」
我を忘れて、プリンスが叫んだ。
「だって、カルロスはもう、一人じゃない……」
スパイが、また、本を顔の前に立てた。声色を変えて、読み分ける。
「
(王子) お主はきっと己のものか。
(ボーサ侯) 永久に。その詞の意味の果まで。
」
「おい、先走るなよ」
プリンスが留めた。スパイの手から、やっとのことで本を取り返す。
「大きくなった二人は、ともに王都を離れ、アルカラの大学で学んだ。自由な大学で、カルロスとロドリーゴは、身分を超えた友情を育んだ。国政について語り、治世について、民衆の幸せについて、熱く意見を戦わせる……」
うっとりと、プリンスは両手を組み合わせた。青い目が、少しぼやけて見える。
「
「えっ、そんな難しい話になるんですね! ついてけないわけだ」
「お前が、飛ばし読みをしたり、変な解釈をしたりするからだ」
「どこがです?
「……」
プリンスは、スパイを睨んだ。何かいいかけて、やめた。本を取り上げ、首を振った。
「一方、
「国を出ることが許されなかった」
途切れた言葉の先を、スパイが補った。。
プリンスは俯いた。
それはとりもなおさず、今の彼の境遇と同じだったからだ。
カルロスは、父王の猜疑心から
一方、プリンスの方は、父が戦に負けたことにより、母の実家に幽閉されている。
「あなたのような方を、宮殿に閉じ込めるのは、誤ったやり方だと思います」
口ごもりながら、スパイは言った。
「あなたにはきっとできる。何かはわからないけど、でも、きっとできる!」
「僕に何ができるというんだ?」
嘲るように、プリンスが言った。
「この国に閉じ込められ、情報を遮断された、この僕に!」
「だからあなたには、わかるのですね。ドン・カルロスの孤独が」
深い溜め息を、スパイはついた。
……。
シラー『ドン・カルロス』初版
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「」内、一行空きで挟まれた部分は、『ドン・カルロス』(シルレル、佐藤通次・訳 岩波書店)からの引用です。
段ボール少年たちの画像は、
Louish Pixel "Danbo and Sack Boy tattle-tale 27/365"
https://www.flickr.com/photos/louish/5394376741)
に手を加えました